自分はなぜ生きているのだろう?
生きることに意味などあるのだろうか?
生きることに価値などあるのだろうか?
そう迷ったら、御茶ノ水の神田明神にある「乙コーヒー」に行ってチーズケーキを食べるといい。
迷っていたことが馬鹿馬鹿しくなるから。
こんなに美味しそうなんですよ。
この喫茶店は神田明神の参道に店を構えている。いいと思う。神の前に構えるに相応しい店だ。それくらいここのチーズケーキは美味しい。
Twitterの構文のひとつに「まじでこの世の全チーズケーキ好きに教えたいんだが~」っていうのがあるけど、私はここのチーズケーキを誰にも教えたくない。
すでに人気の店で休日は並ぶ人もいるし(参道にあればそりゃ目立つし)、チーズケーキ好きは鼻が敏くすぐに寄って来るので、できれば人けのないところに移動して私だけにチーズケーキを供してほしい。独占したい。この世の幸せを。
写真からもわかるように、乙コーヒーのチーズケーキは慎ましやかで上品な大きさだ。スーパーの冷菓売り場の隣にあるようなケーキとは違う。
最初出てきたとき、「慎ましい大きさ」だったので、馬鹿にしてやがる、とおもった。
口にも出したかもしれない。
「馬鹿にしてるんですか?」と店員さんに言ったかもしれない。
恥ずかしい客だ。
だってこんなに小さかったら、一瞬で食べ終わってしまうではないか。
まな板の上の鯉。袋の中のネズミ。目の前のチーズケーキ。
一瞬で勝負はつくのだろうな、とおもった。鎧袖一触。スタバのニューヨークチーズケーキだって一瞬で食べてしまう私だ。こんなiPhoneSEよりも小さいチーズケーキ、はは、秒ですよ、秒。
だが、実際は食べるのに15分くらいかかった。
なぜか?
じつに、じつに味わい深かったからだ。
そしてこの大きさがベストだとおもった。完璧だった。
細いフォークをチーズケーキに差し込んだときの、なめらかでかつ重い感触。その瞬間に「美味しいやつ」だとわかった。
美味しいスイーツは食器で触れた瞬間にわかる。なんていうか、スイーツと自分の間に、食器を通して一種のコミュニケーションが発生するような感覚がある。
「いいんですか?」と私はチーズケーキに訊いた。
「やさしくしてくださいね」チーズケーキはたしかにそう言った。あざとさがあるが、嫌味の無い上目遣いでいじらしい。
緊張しているように見えるが、経験豊富であることが所作からうかがえ、安心感すらある。
ひとすくい、口に運んだ。
情報量の多さに驚いた。
まず食感。口触り。舌触り。温度。やわらかいのは無論だが、フォークで触れたときの印象ほどにはねっとりしていない。
こういう系統のチーズケーキはねっとりしすぎている場合があるが、乙コーヒーの場合はちがう。なんていうか、美しいまろやかさだ。
飲み込むのが早い。
咀嚼をほとんど必要としないほどやわらかい。
しかし存在感はたしかにあって、飲み込むときに喉の蠕動運動で「重さ」を感じられる。
やわらかい、と言葉に表したが、どうにも「やわらかい」という言葉がしっくりこない。そういった種類のやわらかさだ。それは完璧に調整された温度と相まって、染み込むように体内に入っていく。
生まれ変わってこのチーズケーキになれたら幸せだろうな。
味は、細かく書こうと思えば、いくらでも書けてしまう。
カラメルソースの苦み、チーズ本来の酸味、牧歌的な甘み。
一度に口に入れて良い情報量ではない。細密画を口に入れたようで、奥深く、たとえば子どもが食べたら驚いて泣いてしまうかもしれない。
正直に甘いわけでも、苦いわけでも、酸っぱいわけでもない。一概に「甘い!」とも言い切れない甘さ。もちろん甘いのだけど、決して甘さが主役を張っているわけではないのだ。味の要素の緻密な交わり合いを感じるのだ。
なにが美味しいかって、そのハーモニーが美味しい。その一色ではない味の色合いが美味しい。
得てして情報量の多い食べ物は要素が相殺し合って「無」になるパターンがあるが、このチーズケーキは余裕をもって調和し、混声している。
これはバクバク食べていいケーキじゃない。そんなことをしたら失礼だ。
ひとすくい、ひとすくい、神に感謝するように、神田明神に叩頭して仰ぎ、食べなければならない。
そういうわけで食べるのに時間がかかった。
時間をかけて食べるべきチーズケーキというものがこの世には存在する。
是非。