オフェイロンの『アイルランド 歴史と風土』という本を読んだ。
古本屋で出会った本だ。
私はアイルランドについてまったく興味がないし、アイルランドについて知っていることといえば19世紀のジャガイモ飢饉くらいで、あとは漠然とイメージするだけの荒涼とした大地、なだらかな丘陵、そして草原と冷たい風くらいしかアイルランドについて語れることはなかった。
この本を読んで、じゃあアイルランドについて一席うてるようになったかというと、そんなことはない。なぜなら、全然興味がない事柄について文献をまるまる一冊読むというのはそれなりの苦痛にほかならず、おおよそうわの空で読んだからである。
それでも岩波文庫で300ページ読んだのだから、よくやったと思う。
なぜこの本を買ったのか、その理由はどうしても運命的な出会いとしか言いようもなく、説明は野暮だ。
偶然古本屋に置かれているところを手に取り、最初の一文を読んだ。この本は次のようにしてはじまる。
「カメラを搭載した人工衛星がヨーロッパから西方に向かって軌道を回っていくと大陸の端に、今にも大西洋の荒波にすべり落ちそうに存在する、ぎざぎざの海岸線を持つ島が見えるだろう。」
特に感動的で劇的な始まりでもないけど、どうせつまらない本なのだろうなと思ってページをめくった私にとってこの一文は「おや?」と思わせるに十分だった。
私が表紙とタイトルだけ見て抱いた印象とは少し違うようだった。
この部分がひっかかって、古本屋を一周した私は結局忘れられず、これを200円で購入するに至った(他には『銀の匙』と『山の音』と『万葉集歌(二)』(『万葉集歌(一)』はもちろん持っていない)などを買った)。
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読み進めていくうちに、ぜんぜん内容が頭に入ってこなくなり、そもそもアイルランド人の精神性を歴史を踏まえて探っていく内容であるから無知にはピンとこなくて、もうすこし勉強してから読んだ方がよさそうだった。
ただ、このオフェイロンという筆者は自分もアイルランド人のくせしてアンチ・アイルランド的なところがあり、国民に対してかなり批判的で、権威に対してそうとうの恨みを抱いていることだけはわかった。
というのも、悪口が頻繁に出てくるのだ。
学も無くやる気もなくただ苦しむだけでなにもしない愚かな農民やカトリックに対して、筆者は革命家の言葉を借りて批判する。
「臆病者極まる」
「わが平民、みすぼらしい輩」
「うんざりだ」
「食うものはまずく、寝床はどうしようもない」
「どうしようもなし」
「くたばれ無知な因業者(いんごうもの)」
言葉を借りているかと思いきや、その後で筆者は革命家たちを「アイルランドに与えたのと等量を奪った」と批判し、革命の失敗について「彼らは思想よりも情熱に生涯のすべてを捧げたからだ」と痛烈である。
他にも、アイルランドの詩人については「どうしようもないほど場違いなもの」と言葉を借りて批判するし、政治家を「嘘つきのごろつき」と揶揄するなど、ほとんど悪口みたいな箇所は抜き出せば枚挙にいとまがない。だんだん慣れてくると皮肉を皮肉とも思わなくなってくるほどである。
悪口をする場合は、あるいは皮肉や非難をする場合は、この本を読んで学んだことは、
1.徹底的に
2.端的な言葉で
3.繰り返し
やるのがよいとわかった。
「なにもそこまで……」と読者に思わせたら勝ちである。
ただ、ずっと悪口を羅列するのではなく、論理性を持ってとくとくと言葉を繰り出す流れの中で、まるで掬いあげた水流に紛れ込んでいた魚の棘(とげ)のように言葉を刺すのがいいだろう。痛烈さこそ真骨頂だ。
だけど、これがおもしろいのは、悪口や非難が「滑稽」に転ずるのはその繰り返し方と語彙の選び方もさることながら、結局は自己卑下であることだろう。
筆者がアイルランド人で自分自身をもまとめて非難するからなんだか気持ちが良いのだ。
そして何よりも、対象に愛情を抱いていないとはじまらない。
私は『アイルランド』を読んで以上のことを学んだ。
アイルランドについてはなにも覚えていない。