「いいなぁ猫は。おれも猫になりたいなぁ」と男は言う。
勝手なものだ。猫の気も知らないくせに。
男はおれの兄飼い主で、3人いる飼い主のうちで最も気が弱く、妹飼い主からは「情けない男」と言われ、母飼い主からは「子育てに失敗した」と言われている、どうしようもない男だ。飼い猫としても残念に思う。
「いいよなぁ~~~一日中寝てて。はぁ~~~~~~」男はそう言うと、おれの柔らかな腹に顔をうずめ、「ヴぅ~~~~ンガッ、フゥーーーーーッ!ハァハァ……」としきりに暑苦しい息をする。
それがとても、嫌、というか最早憐れで、おれは根城のキャットタワーからサッと身を翻して卓袱台の下にとんずらする。男はその様子を、顔中毛まみれにしながらほのぼのとしている。
どうかしてしまったのかもしれない。
男は、人間が言ううちの平日にあたる5日間(猫的な時間感覚からすれば一瞬の連続に過ぎない時間だ)を、ほとんど屍のようにして過ごす。
と言ってしかし日がな一日中寝ているのではなく、どうやら「仕事」というものを自分の部屋でしているらしく、それが憂鬱で死んだ目をしているのだ。
「わしを殺してくれんか?」
男は日曜の夜になると決まっておれに言う。
仕事とは相応に辛いらしい。
猫族は余計なことを忌み嫌うし、ほんとうの充実とは何かを知っているので、仕事なんてしない。仕事なんてことをして胃を痛ませるなんて、人間か犬君のやることだ。要するに下賤、実に人間らしい営みだ。
仕事をしないと生きていけない人間にはつくづく同情する。ヘシオドスの宣った『労働と日々』や「働かざるもの食うべからず」という古い諺に、いつまでも縛られているのだ。
言語によってしか思考を明確化できない、実に人間らしい皮肉の効いた呪縛である。
だけど、それでも、「猫はいいよな」なんて言葉は看過しがたい。
我々猫族だって、ただこうして陽だまりで微睡んでいるだけが猫生じゃない。
低気圧の日には全身の毛が内からそそり立つような頭痛を覚えて、テーブルの静物をむちゃくちゃにしてやりたくなるし、猫じゃらしをぐちゃぐちゃに再起不能にしてやりたくなる。
飯の時間ちかくになるといてもたってもいられなくなり、欣喜と躍動のなかで不満と謂れもない醜悪な気分とが相まって躁鬱になり、詩吟をしたくなる。それで毎朝主人たちを寝ぼけ眼で混乱させる。
揺れているものを見ると、いてもたってもいられなくなる。こればかりはどうしようもなくて、爪を立てて時には男主人の足を引っ掻きたくもなる。血を流させてしまったことは悪いと思っているよ。だけどフラフラしているお前が悪い。たとえば快楽殺人者の思考ってこんなところだろうか、と犯罪心理学にも造詣が深いおれは考える。
このように、猫だって、おれだって、それなりに大変なんだ。
だけど一切の時間は一瞬の寄せ集めに過ぎず、今この瞬間において過去は存在せず、未来はまだないのだから、なにも憂鬱になることはない。
「いいよなぁ~猫は」
人間だってよく見えるぞ。
それなりに愚かだが。
さぁ、無い髭をぴんと張るんだ。そうして思う存分おれの顎下を撫でるがいい。そうしているときの男の顔は、癒されつつも気色が悪い。