『シン・ゴジラ』を再観した。
いつの間にかAmazonプライムに加入していた。
クレジットカードから謎の500円が引き落とされていて、調べたところAmazonプライムの月額であった。
加入した覚えは無い。そういえばAmazonで買い物をしたときに配達日指定で加入ボタンを押したかもしれない記憶があるが……罠だ。
しかしAmazonプライム、月額500円で映画見放題だし、音楽も聴き放題、配達も早いし最高なので、そのままサービスを続けることにした。
こんなに良い思いをさせてもらって、私程度の人間がいいのだろうか?なにか裏があるのではないか?たとえば加入から3ケ月で薬殺されるとか……。殺害は無いにしても、今後人生で破滅に導かれることはまず間違いないだろう。
だが、不信感はあるものの、サービスを利用しない手はない。
アカウントがあればパソコンでも映画は見れるので、『シン・ゴジラ』を観た。
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『シン・ゴジラ』
前に観たときは、東日本大震災を思い出した。
パニックに陥る政府、国民、未曽有の被害、明日どうなるかわからない恐怖、直接生命が危険にさらされているときにだけ感じる寒気。
震災当時、私は神奈川に住んでいて、東北地方ほどの被害を受けたわけではないが、テレビで見る被災地の状況、壊滅という言葉の重み、増え続ける死者数、余震、計画停電、物資の不足など、あのときのうすら寒い気温と恐怖が今も胸の奥に刻まれていて、歳を重ねるごとに震災関係の映像を見るのがしんどくなっている。
いかに恐ろしいことだったか、客観的になればなるほど身に染みて凍える。
『シン・ゴジラ』はその震災時の状況を彷彿とさせる。
放射線量のことや、未曽有の被害に対する遅くて消極的とも見れる政府の対応(結果として遅く見えるだけだ)、政治的目論見、などなど。
でもいちばん震災と重なったのは、「どうしようもなさ」のリアリティだ。
地震の発生をどうすることもできないことと同じように、ゴジラの出現と被害は食い止めようがなかった。
人智も及ばぬ圧倒的恐怖に対抗する術もなく、人間はやられてしまう。自然には敵わないし、地震を倒しようもない。ゴジラが暴れたら避難するように、地震があったら被害を最小限にとどめる対策をするしかない。
映画の中では人災による二次災害を絶対に避けるようにかなりの配慮が払われていた。震災においても人間にできることはそれだけだったのだろう。
この「どうしようもなさ」に屈服し、「ゴジラと共存する」可能性を探ろうとした姿勢が、震災を経て日本がたどり着いた、地震はいつか起こるものではなく、いつも共にあるものだという考え方によく似ているとかんじた。
自然を追いやるのではなく、自然の中で生きているということをあらためて思い直す姿勢がそこにはある。
この「脅威と共にあらん」姿勢は、まさに現在のwithコロナと重なるところがあった。
『シン・ゴジラ』は公開から4年が経った今、コロナ禍に呻く日本に、またひとつの観方を提示している作品だ。
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映画の中では、ゴジラはなんとか凍結され、活動を停止させることに成功したが、最後には不穏な雰囲気を残しており、人類が完全に勝利したとは思えない終わり方になっている。
だからこそ「ゴジラと共存する」と主人公・矢口は言ったのだろう。
だが、映画の中では、人類は完全勝利こそできていないが、次の段階へ歩みを進む足掛かりを手に入れたことには間違いない。
そんなところに、なんだか力を貰えた気がした。
『シン・ゴジラ』はこれから先いつの時代になっても普遍的で根源的な恐怖と、そして人間の抱くことのできる限りない希望を与えてくれる作品になるだろう。