蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

『はだしのゲン』に向き合う問題点

  小学生の頃、図書室にあった『はだしのゲン』を貪るように読んでいた。

 『はだしのゲン』でプルトニウムとかウランという元素があることを知り、なんなら元素を元素として一番はじめに認識したのはプルトニウムとウランだったかもしれない。

 8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされたことを漫画で知り、強烈な絵柄と登場人物たちの不遇のストーリーによって、戦争というものの恐ろしさを知った。

 

 もしも、いま、原子爆弾が落とされたら、私はどうなってしまうのだろう、死ぬのだろうか、全身の皮膚が溶けて幽霊のようになって街を彷徨うだろうか、お母さんと妹はどうなるだろうか、屋根の下敷きになって焼かれるだろうか、などと考えて怖くなり眠れなくなったことしばしば。

 たしかに、考えて怖くなり、眠れなくなる効果をもたらすという点で『はだしのゲン』は児童にとって有害だろう。

 だけど、ドラえもんの宇宙についての漫画を読んで宇宙の広大さに思いを馳せて寝不足になった夜もあるし、かいけつゾロリを読み耽って夜が更けったこともあるので、全般的におもしろい書物は有害なのかもしれない。

 

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 『はだしのゲン』には作者の思想が色濃く反映されていたり、時代柄の差別用語が含まれていたりするものであるからという理由で、一時期学校の図書室からなくそうというムーブメントがあった気がするのだが、あれはどうなったのだろう。

 どうなったのか知らないけど、そのニュースを聞いたときから、なんかそのやり方は違うんじゃないか、とモヤモヤしている。

 『はだしのゲン』には戦争を起こした昭和天皇を排斥するような発言があって、とくにそこが問題視されていたような印象。だけど作品を読んでみれば、なんとなくその発言も納得してしまうというか、もしも自分の家族が原爆の火によって焼かれたり、自分が戦地に赴き敵兵を殺害することになったとしたら、戦争という運命を恨んでも仕方がないし、同じような家族のいる同じような敵兵を憎んでも終わらないし、根本的な戦争の原因である天皇を憎まなかった、と言えるかと問われれば、自信をもって「はい」とは答えられないような気がする。

 歴史的な事実と真実は異なるものだ。

 作品の中に偏見はあるだろうし、思想は傾いている。

 だけど、作者としては、思想の中でそう傾かざるを得なかった育ち方をしたわけだし、それは真実だったのだろう。

 

 小学生は『はだしのゲン』を読んで天皇や日本を憎むだろうか?

 

 よっぽど考え方の視界が狭い小学生だったら漫画の中のことをすべてが真実で事実だと了解し、思想を傾けるかもしれない。大人になっても『はだしのゲン』の思想がどの思想よりも真実で事実だと思い込むかもしれない。

 だけど、現実的に考えて、それはあり得ないのではないか。

 

 思想は可塑的なもので、さまざまな文献を読むことや勉強やメディアを通じて変わっていく。

 昨日まで右翼だったけど今日から左翼になってもおかしくはない。

 勉強するほど視点が広がるし、角度を持つことができる。そのうえで自分の思想が昔から変わらない、というのであればそれでいいものだ。さまざまな思想があることを知っているということが大切なのだ。

 

 だから、大事なのは『はだしのゲン』を全面的に排斥するのではなく、『はだしのゲン』の思想がある、と知ることなのだろうとおもう。

 いろいろな考えがあり、それぞれの思想に至るまでの経緯があり、運命があり、必然がある、ということを知ることが大事なのだ。

 『はだしのゲン』の中に出てくる思想は言葉が強く、また絵柄も強く、ストーリーの悲劇性に同情することもあって、影響を受けやすいものだ。小学生となれば尚更だろう。

 だからこそ、さまざまな考え方がある、ということについて教えるべきだと思う。

 

 どの思想に染まるかは当人の問題だし、それを制御してとやかく言うのは真の教育ではない。

 思考停止していて、すべてを制御できると考えている傲慢な大人だ。

 大人たちが教えるべきは、戦争がいけないことである、ということでも、天皇は悪者である、あるいはそうではない、ということを教え染めることではなく、さまざまな思想がある、ということなのだ。

 そこから子どもたちが、ひいては思考停止させた大人たちが、さまざまに自分で考えたり調べたりする姿勢を身につけることこそが、読書教育のありかたなんじゃないか、と考えるものである。