蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

新書はフィクションとして読めば面白い

書。

なんかちょっと長細い感じの本。

表紙がなんだかみんな同じかんじの、内容が難しそうな、フィクションではない、本。

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こんなかんじの本。

主にノンフィクション、評論、論説を扱っている。

 

鈴木大拙の『禅と日本文化』は大学生の頃読んだ岩波新書だが、読むのにかなり苦労した覚えがある。

私は頭がそんなに強くないので、難しいことを言われるとこんがらがってきて、文章を読みながら雲のかたちについて考えたり、過去の失敗を悔やんでクヨクヨしてしまって、気付けばページはいくつも進んでいるのに内容はまったく頭に入っていない、ということがしばしばであった。

今でもそうだ。

新書に限らず、難しめの小説を読んでいてもそうだ。

 

 

新書・評論・論考・論説を読む必要はないのだけど、読んでいるとやっぱり格好良い。

知的な格好良さは自身の外見に伴わず、ただ本を持っているだけでそれっぽく見えるから、誰でも簡単にできる安価な格好つけ手段である。

私のような頭の弱い者ほどそのような愚考を犯し、やたらと格好つけて難しい本を選んで鞄に入れて持ち歩くけれど、内容はまったく頭に入っておらず、「どういう本なの?」と訊かれるとシドロ・モドロしてしまう始末。

本当に知的に格好良くなりたいのなら、やっぱりある程度は読んで、内容を簡単に説明できるくらいになっておかなければならない。

でもはっきり言って馬鹿だから、読んでも読んだことになっていない。よくわからなくて理解できない、ぶっちゃけ面白くない。大体中途で挫折してしまう。

 

 

どうすればよいのか?

 

 

新書を読むコツはあるのだろうか?

 

 

 

 

あります。

 

 

え????

 

 

 

フィクションとして読むのです。

 

 

 

はぁ??????????????

 

 

 

ノンフィクションを、フィクションとして読むのです。

 

 

???????????????

 

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文体はかたく、論理的で主人公もなにもないけれど、「そういう特殊な小説」と思って読むとすこぶる面白くなる。

なんだか小説内の世界設定を説明するプロットを読んでいるような、または小説内で登場する出来事を説明する架空の専門書を読んでいるような、不思議な読書体験ができるのだ。

 

私はこの方法で『禅と日本文化』を読破した。

一回目はこの本を「仏教の秘伝書」ファンタジーと思って読んだ。そうすると、理解しがたかったことがするすると頭に入って来て、「ああ、そういうことね」と理解を超越して「肚でわかる」状態、すなわち「了解」して読め、図らずも『禅と日本文化』の内容に即した読書をすることができた。

一回読破するとなんだかもう一回読みたくなり、今度は実際に鈴木大拙が考えたことと思って読むことができた。三回目は随所をつまみながら、一文について深く考えたり、禅の眼差しに思いを馳せることができた。名著である。

 

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先日、渡瀬裕哉『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』を読んだ。

政治のお話はちょっと得意ではなくて、不安だったけど、これを私はSFと解釈して読んだところ、たいへんに面白く、なんだか『1984年』のゴールドスタインの「例の本」を読んでいるような気分になった。

近未来の世界では、人々のアイデンティティは "党" によって規定され、自らを他者の決めた枠組みにはめて暮らすことになる。政府はそれを政治的に利用し、票を集める。保守とリベラルが対立を深め、人種やナショナリズムで世界を分断する────。

おそろしい未来だ。こんなディストピアは嫌だな。

そう思いながら読み終わって、ああ、面白かったと本を閉じたが、思い出せばこれはフィクションではなくノンフィクションなのだったと気付いて、ぞっとした。

 

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どうしてフィクションと思い込むことで、論説の中に入っていきやすくなるのだろうか?それは、小説を読むときに自然に起こっている「没入感」を利用しているからだ。

小説を読むには、読者はある程度の懐の深さを要求される。

前提として決められた設定やあり得ない展開にも「そういうことね」ととりあえず呑み込まなければ小説世界に入っていけないのだ。

前提を受け入れ、なんの疑問も抱かず、「そういうこと」としなければ小説世界には入っていけない。

この「入っていく」メカニズムを、新書を読む際にも利用しているわけだ。

 

 

この読み方は、著者にとっては不誠実な読み方だろう。

だけど、結局のところ「理解」を目的として読んでいるのだから読み方は不誠実ではあっても「読めればいい」と私は考える。

書かれていることが実際に事実であるかどうか、真実であるかどうか、そこはたとえノンフィクションであろうともわからない。書けばテクスト上はすべてが事実で真実になるのだ。

新書は作者の思想を知るためのもので、それをすべて真実と思って吸収するのは危険だ(それこそ他者に自分がどういう人間か決定されるように恐ろしいことだ)。

100%鵜呑みにするのではなく、そういう側面もある、と捉えて知識を吸収し、自分の中の判断材料として知識を持っておくために新書を読むのだ。知識を蓄えるとはそういうことで、思考力を深めるのはいつか判断を迫られたときに情報を取捨選択する力を養うためのものである。

そういう意味ではノンフィクションをフィクションとして読むことで、最初から100%として読まなくなるので、論説に呑まれにくくなるというメリットもある、と考える。

入り込めはするけど呑みこまれにくい読書が実現可能になる。

 

新書をフィクションとして読むことは、その論説に自分が入っていきやすくし、理解の助けとなるための手法である。フィクションとして読むことが目的化してしまうと問題になってくるので注意されたい。

フィクションとして読みつつも、ノンフィクションとして最終的に捉え、知識の一側面として蓄えることが大事だ。

 

 

この方法を使えば理論上、どんな難しい本だって読めるようになる。

理論は机上で作られることを忘れないようにしておきたい。