欧州の美術館で、作品にスープをぶちまけたり、額縁と自分の手を接着剤でくっつけたりする不埒な輩が続出しているらしい。
彼ら・彼女らは一様に環境問題を訴え、じぶんの正義に則って行動を起こしている。
その団体の代表者も、まずはこのようにして環境問題への注目度を上げることが目的だなどと話していることからもわかるとおり、彼ら・彼女らはまったく聞き耳を持たない完璧な馬鹿どもだ。教科書に載せていい。明確な愚から人々は学べることがあるから。
ゴッホは「ひまわり」を、環境問題に目を向けてほしくて描いたわけじゃない。ゴーギャンの目を惹きたくて描いたのだ。
故人とはいえ、人が命を削って作った作品を愚弄し、しかも自分たちの目的のために利用しているというのが、まず許せないポイント1。
次に、ガラスなどで保護されているから、なんかちょっとだけ許されるだろ、みたいに思ってそうなのが許せないポイント2。日和ってる。覚悟が足りない。「とりかえしがつかないわけじゃないし本体は無事だから」って最悪の部分での保身には理性的なのにやってる行動は感情的に見える。
そして許せないポイント3。作品は長い間に紆余曲折を経て、美術館へ保存されて、現在の人々から大切に保管されている。そこには作者以上に、芸術作品を愛する気持ちを持った人たちの想いが込められている。それを踏みにじる行為、なによりも許せない。
人が大切にしているものを自分の目的のために穢していいわけがない。
それにしても、どうしてゴッホにスープをぶちまけることが環境問題への抗議活動になるのだろうか?
注目を浴びたいだけなら、ロンドンの街を裸で馬に乗って駆ければいい。街じゅうの車をパンクさせればいい。観覧車のゴンドラから飛び降り自殺させればいい。注目を浴びたいだけなら。
ここで考えたいのは「どうしてスープをぶちまける悪行になったのか」だ。
つまり、方法論の理由を考えてみたいと思う。
自称環境保護団体にとって、嫌なことはなんだろうか?
地球の環境が破壊されることだ。
環境が破壊されるとはどういうことなのだろうか?
異常気象が起こるとか、作物が育たなくなるとか、動植物が絶滅するとか。地球に自然としてあるものや事象が異常をきたして失われたりすることだ。
自称環境保護団体曰く、私たちはそういった破壊の現実から目を背けているので、目を向けなければならないらしい。
環境破壊。それは地球の自然という「資産」が、人間の手によって不当に、理不尽に、破壊されること。
地球にとって森を一つ失う痛みは、たとえば私たちがなにを失うことに匹敵する痛みなのだろうか?
ゴッホの絵画を一枚失う痛みに等しいのだと解釈したらどうだろうか。
自称環境保護団体はその地球の痛みを代弁してやっていると、どの立場なのかわからないけど、そんな立場で行動を起こし、疑似的に私たちに痛みの深刻さを訴えているのではなかろうか。
不当に「資産」を破壊される痛み。人間の作り出した「作品」という「資産」を一方的に奪われる悲しみを表現しているのだと考えられる。
歴史的な絵画を失う苦痛は海面が数十センチ上昇する地球の苦痛と等しい、と彼らは言いたいのかもしれない。あるいは地球を、我々の「未来」と言い換えて。
ほんとうにそうなのかは知らない。ただの妄想だから。
実際のところは違うだろうし、今や注目度を高めることだけに目的が集中しており行動それ自体は形骸化している可能性もある。
でも、そのように解釈をおこなうと、納得はできないものの、理解はできる。
たしかに、そうかも、とちょっと思える。
でも、それでも、やり方は間違えていると明言しよう。理解はできても了承はできない。
容認しちゃいけない、こんなやり方を。
正当に、冷静に、けれど情熱的に活動している環境保護団体をも踏みにじる行為に違いない。実際に、環境問題はヤバいし、自分にできることならなんとかしたいとも思っているのは本当だ。でもやり方ってもんがある。
言いたいことがあるなら言えばいい。
誰かを、なにかを、傷つけていいわけがない。
今ぶちまけていいのは、スープじゃないはずだ。