「ノーベル文学賞を獲れなかったからってなにも落ち込むことはない」と彼は言った。
日本人でノーベル文学賞を獲ったのは、川端康成と大江健三郎の二人だけで、それ以外の作家はどれだけ素晴らしく、どれだけ優れていても、選ばれていないんだ。三島も谷崎も太宰も、石牟礼道子も小川洋子も、もちろん、村上春樹もね。
文学の価値は、賞によって決まるものじゃない。
賞はあくまでそのときの物差しでしかないし、君自身に与えられたものではなく、作品に与えられたものなんだ。
だから、たとえ芥川賞を獲ってもその後うだつの上がらない作家はいくらでもいる。僕は『介護入門』が好きなんだけどね。モブ・ノリオの。
その点、ノーベル文学賞は特殊だね。作家自身に贈られるんだから。
選考委員はよっぽど文学に精通しているか、あるいは……いや、よしとこう。
ところでずっと謎に思っていたんだけどさ、ノーベル文学賞の選考委員は、もちろん日本人ではないんだよね。だからと言ってAIでもない。
彼らははたして、日本文学を読んで、それを正当に、そして深淵に理解し、内容よりもまず文藝としてその美しさを評価することができるのだろうか?
たとえば川端康成の『雪国』の冒頭は日本文学史に残る名文だけど、この素晴らしさを英訳した文章で理解できるのだろうか?
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
もう何も説明しなくてもわかってくれるだろう。僕よりも賢いんだから。
言いたいことは要するに、選考委員会は作家の功績の数字的なデータや、英訳された──あるいはスウェーデン語に訳された──100%純粋な作家の文章ではない文章を読んで(もちろん翻訳家の腕は素晴らしいのだが)評価せざるを得ず、100%純粋の文藝として評価できていないのでは、という懸念があるということなんだ。
わからないよ。選考委員会は全員30か国語以上読み書きができて、世界中の文学に精通しているのかもしれない。
わからないよ。僕だって海外文学を日本語で読むけど、その内容の素晴らしさはわかる。文章の美しさは翻訳家に依存してしまうから評価できないことが悔しいんだ。ただ一点「内容のみ」によって評価を下しているのかもしれない。
でもさ、「内容のみ」で評価を下すのは間違っているんじゃないかっておもうんだ。
それって最早文学じゃなくてもいいじゃん。ゲーム・シナリオとかアニメとか、文字に頼らないものでもいいんじゃないか。
ねぇ、それって「文学」と言えるかい?「文学賞」と言っていいのかい?
歌詞だって音楽を根本としている点において、ぎりぎり文学と呼べなくもないと言えるレベルなんだぜ。
文学の基本はまず、文字で書かれたものであること、というのが持論なんだ。
だからさ、なんていうか、落ち込むことはないんだ。ノーベル文学賞"程度"が得られなかったからって。
周りの声に惑わされることもない。
「周り」は報道や広告でお金になるチャンスを探りまわっている、鼻が鋭くて目の悪い経済動物でしかないんだからさ。
ファンだって、君がノーベル文学賞を獲ろうが獲るまいがどうだっていいと思っている人も多いんだ。僕みたいにね。
ただ、結果に関わらず、喜んだりちょっとは気にしている人が沢山いるということは、君が選ばれた人間で、自らその地位を掴み取った人間で、少なくともこの小さくて傷つきやすい世界で愛されている人間であるという証拠なんだからさ、自信を持ってほしい。
好むと好まざるとにかかわらず。