蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

コンテンツ飽食の時代

レビ東京なんかでよくやってる「昭和の名曲選ベスト100」みたいな3時間くらいある番組を見ていて、いくつかのことをおもう。

まず、そろそろ昭和はやめたらどうか、ということ。

2世代前だぞ。「平成」という響きすら懐かしいのに昭和て。

でもそういう気概もあるのだろう、さいきんは「昭和の」と冠するものは減りつつあり、「昭和平成」とひとくくりにされることが多くなってきた。

ベスト100なんて多すぎる、というのもおもう。

3時間もテレビに張り付いていられるほど熱中するのはいいかげん昭和生まれくらいのものなんじゃないか。年末でもあるまいし。

そして最後にもうひとつおもうのが、ここからが今日の本題なのだけど、今の時代の音楽は30年後にこうして取り上げられる程人々の記憶に残り、愛され続けるのだろうか、という不安にも似た疑問である。

 

残らないのではないか。

 

たぶん3ケ月後には「香水」の存在を忘れ、Lisaの歌声は飽きられ、また新しいミュージシャンが登場して流行は変わるのだろう。なんならすでに「香水」は存在を薄めつつある。

 

   ↓

 

音楽に限らず、コンテンツの消費スピードが年々早まっている気がする。

「話題」はSNSで即座に拡散され、二日と経たないうちに形を変え、三日後にテレビなどのメディアに取り上げられてあらゆる世代にも拡散され、「ブーム」は作られ、一か月で味もしなくなるほどコンテンツとして消費される。

こうなってしまう原因の一つに、SNSがある。

SNSは拡散されやすく広まりやすいものの、瞬間風速的な熱量しか持てなくて、タイムラインは川の流れのように情報がめまぐるしく目に入ってくるものだから、ひとつのコンテンツが人々の記憶にとどまりにくいのではないだろうか。

川を流れてくるものをあれもこれもと拾っているうちに最初に拾ったものの存在を忘れて、結局拾ったものを消化しきれずに川に捨てていくようなそんなイメージが、昨今のコンテンツの消費速度に見られる。

 

テレビでさえ情報量が多かったのに、SNSやインターネットはさらに多い。

情報の渦、と呼んでもいい。

トレンドが一時間に何度も入れ替わって、とてもすべてを追いきれない。

おそらくだけど、人間の情報処理能力を越えているのだ。

だから、ひとつのコンテンツが脳に残りにくくなっているのではないだろうか。

さらにすぐにまた違うコンテンツが入って来て話題に置いていかれるから、それまであったものを情報の渦に投げ入れて捨て、変わり身が素早くひとつところに留まることができない。

だけど一度流れた情報は永久に残り続けるからいつでも取り出せる。巨大な本棚を共有しているような感覚だ。

事件のほとぼりが冷める速度は速いくせに、情報はデジタルタトゥーとして残り続けてずっと根に持たれる。タチが悪い。

 

 

コンテンツの質は上がっているけれど、それが多すぎる。

ものすごい話題と熱量になるのに、忘れられたら永久に思い出されないほど冷たくなる。

原因はSNSだけではなく、生活の変化とかさまざまあるのだろう。商業スタイルの変化もあるかもしれない。

 

 

エコで循環可能な経済が発達して物やエネルギーの消費が抑えられていく一方で、「情報の消費」機運は高まっていて、まだピークは先だとおもわれる。

忘れやすくなった社会では、コンテンツの息は短い。

人々の努力や時間をかけて作られたコンテンツや芸術や文化も等しく情報の渦に呑まれて忘れ去られてしまうのではないだろうか。

悲しいことだけど、その影は既に及んでいて、コンテンツ飽食の時代に飲み込まれている。

現に映画や音楽の消費スピードがまさにコンテンツ飽食の時代の「被害」に遭っていると、私はおもう。

 

 

良い映画が生まれなくなったのではない。良い音楽が生まれなくなったのではない。

そのことを言いたい。