今年も梅酒を漬けた。
去年は青梅だったので今年は南高梅だ。どう違うのかはよくわからないのだが、南高梅の方が甘く、深いらしい。
また、去年はプラスチック製の容器を使ったのだが、それだと気密性が低いため水分が蒸発してしまうらしく、たしかに酒の減りがやたらにはやい気もしていたので、今年はガラス製の瓶をAmazonで購入した。
プラスチック製よりも重いが、この重さが気密性を保証してくれているようで安心感がある。重いものは軽いものよりも「価値がありそう感」あるので、なにかを守りたいときとか感謝の気持ちを伝えたいときはなるべく「重い方」を選ぶといいだろう。この瓶は内蓋もついてるのが嬉しい。
梅のずっと吸っていたくなるような心地よい甘い香りをホワイトリカーと氷砂糖と共に時間の旅へ漬け込む。梅酒は投資だ。未来の自分へのプレゼントだ。これから少なくとも三カ月、長いようで短い期間、この待つ時間さえも楽しい。
ところで私はこうやってなにかを作るのが好きなのだが、妻はそれに同調してくれない。
「買った方がはやい」と言う。
でも作るのが嫌いなわけじゃなくて、梅のへたを取り除くのを手伝ってくれたり、一緒に完成を楽しみにしてくれる。
でも自分からこういうことをやろうとはしなくて、私がやっているのを手伝ったり見ていたりすることがほとんど。作るという行為に自発的ではないのだ。
「わたしは杏酒とかも好きだよ」
「じゃあやってみたらいいじゃん」
「それはいやだ」
杏酒も私が作ることになりそうだ。私も飲みたいからいいけど。
私は「それじゃあ作ってみよう」と思って動くのだが妻はそう思わないし、動かない。「買うか、夫が作るのを待とう」になっている。考え方が違うし喜びを見出すポイントが異なるのだ。私はどちらかといえば過程を重視し、妻は結果を重視しているとも言えるかもしれない。
それが別に悪いとかじゃなくて、ああ、自分とは違う人間なんだよなぁとつくづく実感するのだ。
結句、違う人間同士だからこそお互いの足りない部分を補って、二人でひとつになれるのかもしれない。互いの出っ張った部分が同じだったらうまく噛み合わない。凸凹の位置が違うからうまいこと嵌まって結びつく。夫婦ってそういうもんだと思う。
もちろん「共通する部分」も重要だ。でも人間同士ってそれだけが関係性ではない。
そんなことを考えながら梅にホワイトリカーを静かに注いだ。
この梅酒が飲める頃には夏も終わっているだろう。
なんかいきなり夏がはじまって思い出したけど、最近の夏は暑すぎるから日中は外に出れないのだった。まったくつまらない季節になったものだ。夕方以降にならないと外は危険すぎる。
この梅酒が飲める頃には暑さが落ち着いて、私は転職ができているといいな。