人生に張り合いがなく、現在というものに興味が持てないと、過去のことばかり思い出して、過去の栄光にばかり縋りたくなる。
そういう人、結構いると思う。昔の自慢話ばっかりしてるつまらない人いるでしょう。
あれ、おれです。
今日も過去の栄光のことを思い出していた。
7年ほど前、大学の体育の授業でボルダリングをやったときのことだ。
私は初めての挑戦ながら、誰からの指導もなく、スイスイと7メートルほどの壁を上まで登り、何事もなく地上へ戻ってきたことがある。
そのときの感覚といったらまったくどうして、「普通」だった。どうして周りの人が登れないのか理解できなかった。
歩くように、空を見るように、心臓が動いているように、壁の突起を掴んで体を持ち上げていくことは、私にとって当然至極だった。飛べないことを知らない燕がいないように、登れないことが私にはわからなかった。
「凄すぎる」「やってたん?」「体重が軽いからだ」などと称賛の声を学友から貰った。
「筋肉質な運動部だと案外できないもんなんだ」と先生は言った。たしかにラグビーサークルに入っていた学友は盛り上がった筋肉をもってしても60センチも登ることができずマットの上でへばっていた。当時の私はずっとバンドばかりやっていて、旱魃で餌がなくなり痩せこけた草食獣みたいだったから、体格的にもボルダリングに適性があったのだろう。
だいたい、筋肉で登るものではないのだ。
そのことも私は初挑戦ながらわかっていた。
ボルダリングとは、ずばり、バランスと力学である。
どこに体重をかけるか、どこで体を支えるか、どこに指先を引っ掛けて重心を移動するか、いかに体の負荷を分散するか。短絡的にとにかく登るのではダメで、結構考えて手足を動かさないといけない。
体重とはすなわち重力である。
ボルダリングという競技は、重力に翻弄されながらも重力に逆らい、そして重力と友達になれるか、それを利用できるかが肝要だ。
私は最初に登った、頂上に着くころには、そのすべてを理解できていた。
いや、理解じゃないな。
肚(はら)でわかる、言語ではなく感覚として肉体に覚える、「了解」だ。
たぶん、ボルダリングの天才だったのだろう。
でも私はそれ以来ボルダリングをしていない。
単純にそこまで興味がわかなかったからだ。やりたい人だけやっていればいい。壁を登るよりも壊すほうが好きだ。
こういう理由もなんだか天才っぽくて気に入ってる。
そしてこれからもすることはないだろう。
もしまた挑戦して、今度は全然ままならなかったら、私の栄光はどうなる?
味の薄くなったガムを噛み続ける人生を続けるためにも、私はこのまま地を這って生きようと思う。壁はどんどん高くなる。