世の中にはいろいろな仕事があるものだと、日々実感する。
誰かの動かした手が、私の今日を掬い上げた。都市の暮らしとはそういうものだ。
役に立たない仕事などなく、どんな仕事もなにかしら、誰かの役に立っている。それが顧客のためになるのか、あるいは同じ会社内の誰かのためになるのか、それともずっと先の未来の遠い子孫の役に立つのか、そんなことはわからないが。
その相手が朧げに遠くなるほど、実感は湧きづらくなってしまい「やりがいがない」とか「自分なんてなんの役にも立っていない」と広告的に繰り返す昨今の転職ばかりする平成生まれみたいになっていく。私もそうだった。
村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説の中で、老人たちが寒空の下、せっせと穴を掘るという労働に勤しむシーンがある。その穴はなにかのために掘っている穴ではなく、かといって闇雲に掘られているわけでもなく、計画性があって、管理されていて、それでいて意味のない穴だ。
つまり、その穴を掘るという仕事は、誰かのために利益が発生する労働ではなく、その穴を掘るという行為そのもののための労働なのだ。
労働のための労働。
現実世界にそのような仕事は、まずほとんどない。
この世界でただ穴を掘っても、それは「ただ穴を掘った人」にしかならない。
自分も今働きながら、ときどきこの小説に出てくる労働のための労働が、羨ましくなるときがある。
私の仕事には誰かの都合や利益が絡み、それはいずれ私の生活を支える金銭に変換され、食べ物や電気や衣服に形を変える。これはけっこうなしがらみで、どうにかならんものかと首を傾げたくもなる。そんなときに、労働のための労働に汗を流すことができたら、それはさぞ解放的な気分だろうなと思うのだ。
小説を売ったり、歌を歌ったり、エンターテイメントで金を稼ぐことは、労働のための労働に近いようだ。
けれど、どこか「まやかし」が潜んでいる。
なぜあなたは歌を歌うのですか?という問いに対して「歌で誰かを元気にしたい」と答える人は、申し訳ないけど、島流しにすべきだ。
誰かのために、なんて理由はいらない。歌うのが楽しいから、歌が好きだから、やっていてほしい。
誰かを元気にしたいのなら、歌じゃなくて直接的に医療行為をしたり金銭を援助したり食事を提供するなどしたほうが、よっぽど元気にすることができるし、本人も実感を持てるだろう。
なんかこの、本当は「楽しいからやっているだけ」「承認欲求を満たしたいからやっている」「チヤホヤされたい」という感情をひた隠しにして別の、誰かの役に立とうという「意味」を世間用に作ろうとしているのが、「まやかし」に映る。
純粋労働として、小説を書くという行為を続けられるなら、それはすごくよい暮らしだろうなと思う。
でも、金銭が発生した瞬間にそれは難しくなる。
よし、これからの時代は、NO貨幣経済だ。