蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

夢の中で速く走れない理由

しぶりに夢の中で走った。

今回は自転車に乗って街を走っていて、結構急いでいたのだが、相変わらず全然前に進めなくて苦労をした。うなされて起きると汗だくになっていて、肩で息をしていた。

夢の中ではどんなに頑張っても速く走れない。

私の場合は、足それ自体が重くなるような感じがする。足をめちゃくちゃに速く動かして進まない、というのではなく、足がそもそも前に出ていかない。鉛みたいで、足を動かすほど泥の中に沈んでいくようになる。

景色が油絵の具で溶かしたようにほどけていく。夢の中で走るときはいつも暑くて、オアシスの蜃気楼に駆け出す砂漠の鳥みたいに必死だ。次第に息苦しくなってきて、そして目が醒める。

夢の中で自分がどこへ向かっているのかはいつもバラバラだが、たどり着けたためしがない。

どうして夢の中では速く走れないのだろう?

ちょっと考えてみた。

 

・・・

 

思うに、景色が溶けていくことがキーではないかと思う。

私たちは走れないのではなく「流れていく景色を想像できない」のではないか?

夢の中の世界は純粋100%、自分の想像の世界だ。全ての物事は頭の中だけで完結している高度な精神世界である。

だから、あらゆる風景や人物も、夢の中で思い出したり、創り出したものということになる。

ただ歩いているならその景色を創造する余裕はあろうが、走って速度が上がると、景色を創造する速度が追いつかないのではなかろうか?

だから私たちは走れない。

正確にいうと「走れないようにされている」。

本当は走ることができるのだが、脳みそというハード面のスペックの問題により、創造力がその速度に追いつかず、結果として「走れないようになっている」のである。ゲームでいうところのずっとローディングをしてしまっている状態だ。

真っ暗闇を逃げる夢だったら、走ることができるだろう。景色を創造する手間がないから。だがそれだと、今度は走っている実感を得られないかもしれない。夢の中においては視覚情報にかなりの部分で頼っているから、景色が動かない以上、走っているとは思えないかもしれない。やみくもに息が上がる、悪夢になるだろう。

 

創造力(想像力)は自分の経験したことが大いにその種として影響力を持っている。

だからたぶん、経験していないことや見ていないものや感じたことがないものは、あまり夢の中では出てこないか、論理性のないことになる。恐竜に襲われる夢も、したことのないセックスをする夢も、殺人を犯す夢も、映画やニュースから創造の種を借りてきたにすぎないと仮定しよう。

そう考えていくと、電車の運転士さんとかトラックドライバーさんは夢の中でも走れるかもしれない。常日頃から流れる景色を見ているから、創造するスピードが速くなるという論理だ。慣れているから夢の中でも想像の種から膨らましやすいのである。

毎日スプラッター映画を見て深く考察し、実際に生肉を切るなどして類似した感覚を体に染み込ませれば、夢の中で人を殺し放題もまた夢じゃない(ややこしい)。

 

映画も飛行機もなかった時代、人々は空を飛ぶ夢を見ただろうか?

上空からの景色を知り得なかった時代、私たちは鳥になれただろうか?

今、空を飛ぶ夢を見れるのは、人が夢を叶えたおかげなのだ(ややこしい)。