我が家には長いことビーフシチューのルーが食料品入れの棚に仕舞い込まれていた。カレーのルーやシチューのルーが入っては出ていき、入っては出ていき、ときにはカオマンガイの素やマンゴー缶など異国の顔をしたやつらとも時を過ごし、ずっとずっと忘れ去られた古びた靴みたいに、棚の隅で使われる日を待っていた。
忘れられていた?
まさか。
その存在を私が忘れているわけがなかった。むしろ、使えない日が積み重なるごとに、私の中で存在感が強くなっていった。
だが、使わなかった。
いや、使えなかったのだ。
なぜならそれはビーフシチューのルーであり、材料にはどうしても牛肉が必要だったから。
我が家では、牛肉が高くて買えないのである。
ビーフシチューを作れない理由として「牛肉が高くて買えないから」というのは考えられる限り最も悲しい理由だ。
牛肉どころか、国産の豚こまさえも、買うのに怖気づいてしまう。
近頃の肉類は高すぎる。
お前に食わせるたんぱく質は無ぇ。精肉コーナーで毎週のように罵倒される。
バカなんじゃないか?肉類の値段を思い出すだけで、1秒以内にブチギレることができます。履歴書の特技にそう書こうかな。
妻と私、2人とも中小企業の正社員だと、都内で暮らす経済状況なんてそんなものだ。無論、牛肉程度買うことはできる。牛肉で破産してしまうほどの経済ではない。しかし、日常の金銭感覚において牛肉の値段というのは、ハレの位置にあって、特別なものの価格帯なのだ。
貧困。
そう言ってしまえるほど貧しくはないけれど、決して豊かではない。
ビーフシチューのルーを目にするたびに、その悲しい現実を思い知らされるようだった。
この甲斐性なし。
そう言われているみたいだった。実際問題、甲斐性なしなのでなにも言い返せない。事実の列挙だ。
若白髪。歯並び悪い。肌汚い。頭が悪い。話下手。気が利かない。
事実の列挙は人を苦しめる。事実からは目を背けて生きていたい。
この前の日曜日に、奇跡的に牛肉の塊が3割引になっていて、かなり安かったので迷わず買った。700グラム近い、かなりの量であった。なんの部位なのかも書いてなかった。
いかにも安そうな肉で、包丁でギコギコ切った。よく煮込まないと硬そうだ。
野菜を刻み、すごい量のビーフシチューを作った。
それを4日間かけて食べた。
肉はとろとろになり、それなりに美味しくできた。
でも後半の方はもう飽きていて、ほとんど義務的でさえあった。
もうこれで、ルーを目にして歪んだ感情を抱かなくていいのだ。
その赦しのために、食べた。
私はいつの日か、ビーフシチューをなんのためらいもなく作れる日が来るのだろうか?ルーを買った日に牛肉を買って、なんてことができる日は来るのだろうか?
そんなことを思いながら口に運んだスプーンは、いつもより少し重かった。