蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

記憶は「引き出す」ものか

「頭の引き出しに入ってる」って表現がある。「記憶の引き出し」とか「言葉の引き出し」なんて使われ方もする。

たとえばあるなにかひとつをすぐに思い出せる人が「頭の引き出しの手前に入ってて」と言うことがある。

なにかを連想するときに、頭の引き出しにいろいろ入ってるんだとか、なにかを書くときに頭の引き出しに語彙がたくさんある、みたいな。

しょっちゅう使う言葉ではないけれど、ひとつの慣用句として膾炙した言葉になっている。

私もたまに使うし、聞いたら見たりするけど、そのたびに、思う。

あまりピンとこねぇな。

言うほど、記憶って引き出しのイメージあるか?このたとえはなんだか的を得ていない気がする。

記憶を引き出す、とは言うけれど、タンスや棚に入ってる「記憶」を爪切りや単三電池みたいに引き出している感じってあまりしない。

頭の中に棚が並べられていて、なにかを思い出すときはそこを開けて取り出している?

そんな感じがしないし、絵も浮かばない。強いていうなら『千と千尋』の釜爺のボイラー室にある薬草棚みたいな感じだろうか。残念ながら私は釜爺でもなければススワタリでもないので、記憶がそのように収納されているという感覚は皆無だ。

あまりピンと来ていないにも関わらず、「頭の中の引き出し」は一般的に使われているし、私も無自覚に使っていて、よくない。

言葉には常に意識的でなければ、セルフコントロールはかなわない。無自覚の言葉にこそ、その人のひととなりが現れる。私は自分が真面目系クズだとバレたくない。だから言葉に対して自覚的にならねばならない。

 

「頭の引き出し」に代わる表現はあるだろうか。

記憶を思い出すとき、どんなイメージだろう?

私の場合は、手元の糸の束を引っ張る、というイメージだ。ちょうど縁日にあるくじ引きみたいなかんじだろうか。

ちゃんと思い出したいことが思い出せるかは手元まで引っ張ってこないとわからないし、途中で絡まったり、まったく別のものが思い出されることもある。的確に思い出したいことを引き抜けるときもある。

「引き出し」といい「くじ引き」といい、記憶は「引く」ものであるというのは共通らしい。

引くとか、持ってくるとか、とにかく手元に手繰り寄せる感じがする。

 

もしくは、ポーカーとかババ抜きみたいに、手元のカードを出していくイメージがある。

とくに、すぐに思い出せることや、すぐに出てくる記憶や言葉は手札を切ってる感覚だ。

すぐに見つけられて、すぐに出せる。

手札にしては膨大な数だから現実味がないが、クセのようにくり出される言葉は手札みたいなものだろう。

より無自覚に近いもの、とも言い換えられる。

 

まぁでも、こうやって考えてみてわかったのだが、「引き出し」はなんだかんだ使いやすい表現だ。しっくりは来ないけど、くじ引きとか手札よりはまだマシみたいだ。

だからこの話は、記憶の奥の引き出しにしまっておいてほしい。