蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

みんなの中にも芥川の「鼻」はある

芥川の小説を最近読み返してて、おもしれ〜と、結構思ってたりする。

現在芥川がいたとして、彼の小説がどれくらい評価されるのかははたしてわからない。なんかちょっと説教くさいところもあって、ウザいな、って気持ちもある。

なんでちょっと説教くさいのかというと、『宇治拾遺物語』や『今昔物語集』といった古典説話を話の原型にしているからだろう。説話とは、説教話、つまり道徳の教科書に出てくるお話みたいに、なにかしらの「学び」や「教訓」を読者に与えるモノである。

芥川はこれらの古典を材料に、近代文学を構築している。

古典には書かれていなかった、登場人物の心理描写を明朗に書くことで、近代文学としたのだ。

この工程を見ると、はたして「文学」というものが何を目的としたモノであるか、わかってきて、わかったような気がしてくる。

つまり文学とは「人間とは何か?」を物語によって解明しようとする試みなのだ。

 

芥川の短編小説「鼻」が好きだ。こちらも『宇治拾遺物語』を元話としている。

芥川の「鼻」は鼻のでかい和尚さんがコンプレックスに悩まされるという、それだけの話なのだが、ここで、コンプレックスの二面性を描き出していて秀逸だと思う。

鼻が大きいことで、不便な日々を強いられ、人々にも馬鹿にされて、こんな鼻、と思うのはコンプレックスのひとつの側面。

もうひとつの側面は、鼻が普通の人サイズになったことにより、周囲の人から「やっぱりあの鼻気にしてたんだね笑」と嘲笑われるというコンプレックスだ。

まったくひどい話だ。どうして、困難を乗り越えた人を嘲笑うのだろう?

たとえば整形した人を嘲笑うなんて、SNSで目を凝らすまでもなくそこら中で目にすることができる。癖っ毛にストパーかけてサラサラヘアになった子を笑う人もいる。

見た目のこと以外にも似たことはいくらでもあると思う。字が汚いのがコンプレックスで習字を始めたとか、学生時代にサボってた勉強を大人になってから取り戻すようにやるとか。

そういう周囲の対応によって、その人のコンプレックスはより深い呪いへと変わっていく。

また、「笑われているかもしれない」という自意識過剰な被害妄想もあるにはあるだろう。

誰しも、心の中には和尚の鼻がある。

 

一方で『宇治拾遺』のほうの「鼻」は芥川のほうとは様相を別にする。こちらは人のコンプレックスには焦点を当てられずに、ひとつの笑い話として紹介されている。

その現代語訳はいずれ載せるとして、芥川がこの原話から「和尚のコンプレックス」を見出して近代文学に仕上げたのには驚かざるをえない。

その眼の鋭さというか、着眼点というか、一種の読み方の、秀逸さ。書かれていないことを想像できる力。自身の名前が日本で最も権威のある文学賞のひとつになるだけはある。