蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

タバスコだいすこ

  バスコが好きだ。

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    まず、見た目が愛しい。

    小さい、色鮮やか、可愛い。

    洗練されたデザインだし、無駄がない、にもかかわらずその大きさと色合いが遊び心をくすぐる。

 

    私はお金持ちになったら、白い壁に棚をつけて、タバスコを壁一面に飾ろうと思っている。横一列にずらーっと並べてもいいだろう。

    そのくらい可愛い。

 

    アンディ・ウォーホルキャンベルスープ缶に芸術的価値を見出した気持ちがわかる。

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    ウォーホルも壁一面にキャンベルスープ缶を並べたかったのだと思う。こういうのは壁一面に並べてこそ価値が高まる。

    社会批判とかメッセージ性は無視して、ただただ、キャンベルスープ缶やタバスコの瓶が並ぶさまは、美しく、可愛らしい。

    

 

    タバスコの味も好きだ。

    タバスコは、辛い酢である。

    トマトソースのパスタやピッツァによく合うので、あれば大抵かける。無いと、ちょっと萎える。

    トマトソースにタバスコをぶっかけて食べるのが楽しいのに。

    タバスコはないけど唐辛子オイルはある?仕方ない、そっちをくれ。ふーん、まぁまぁだな。

 

 

    タバスコは酢であるゆえ、香りは酸味が効いて強く、かければ本来の味も変わってしまう。シェフが自分の腕に自信があるほど、タバスコは料理人に毛嫌いされる傾向にある。たぶん。

   味変を楽しむことはできても、そうなるとトマトソースが美味しいのではなく、タバスコが美味しいと言われているみたいで、シェフは嫌な気持ちになるのだろう。

    シェフは気まぐれだから、機嫌を損ねたらもう作らないかもしれない。閉店。

 

 

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    それにしてもこのデザイン、いいな〜。

    タバスコの描かれたTシャツがあったらほしい。トートとかもほしい。

 

 

    ちょっと逸れるけど、紀文の豆乳のパッケージのTシャツもほしい。

    私はあの絵が好きでたまらんのだ。

    豆乳を買っているのではなく、あの絵を買っているみたいなもんなのだ。

     だから中身は全部捨てる。嘘。

 

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    誰か作ってください。Tシャツ。

    よろしくお願いいたします。

 

 

 

    

 

    

恋か音楽か、夢か

    ンド内恋愛ほど予定調和なものもない。

    ギター、ベース、ドラムが男で、ボーカルだけ女の子のバンドを見かけたら、注目すべきは演奏中のボーカルの目の配せかたである。バンドは集団音楽であるからお互いに見ることは重要なのだけど、その瞳の濃さが、意中の相手の場合は異なるからだ。

    どう違うのか教えなくても、動物的勘で観客側はわかるものだ。結局のところ、彼女は観客に向けて歌っているのではなく、意中のドラムに向けて歌っているのである。そういうことはバレバレだ。

    

    バンドではないけど、私は学生時代、オーケストラ的なものをやっていて、そこで1年間指揮者を務めたことがある。そのときに、自分と同じパートの先輩と恋に落ちていた(現恋人なのだが)。

    演奏会当日、恋人は観客として来ていた彼女の友だちから「指揮者の彼が彼氏でしょ」と見破られたという。

    友だちには私が彼女の恋人だなんて一言も言っていないのに、その友だちは、私を見つめる彼女の顔つきや瞳の濃さを見て、指揮者である私が恋人であることを見破ったのだ。代名詞が入り組んでてわかりづらいな。

 

    動物的勘とは、そういうものだ。人間にだって嗅覚はある。嗅ぎわけることくらい、わけない。

 

    そういった具合に、バンド内恋愛もほとんどお見通しだし、バンド内恋愛をして続いたバンドは知っている限り稀有である。

    サザンとか、一部のバンドは例外であるとして、多くのバンドはバンド内での女の取り合いになって、破滅する。

    高校生のとき、軽音楽部でそういうのをよく見た。

    あんな女の何がいいのか、閉じられたコミュニティでは、男は限られた女に対して時間を重ねるごとに等比数列的に欲情し盲目になっていく。男は悲しい生き物なので、可愛がってあげてほしい。

   

    男女間の友情なんて、同性間の友情に比べれば些細なものであると私は思う。

    男と女は完全にわかりあえない別の生き物だから良いのだろう。男女間の友情とやらは、どこかで恋愛と肉体の関係になる可能性を秘めている。男は特にそういう可能性を求めてしまう生き物だから、どうか許してやってほしい。

    許すもなにも、男のそういったところをうまく利用しするのが賢い女だ。女まで愚かであってはいけない。

 

    話が逸れたけど、バンドは同じ音楽を一緒に作り上げていく点で心の交流が生まれてしまうし、一緒にいる時間が長く、さらにどちらかの性数に偏りがあれば、まず誰か一人くらいはメンバーに対して恋とかいう性欲を抱くに違いない、厄介なコミュニティである。

 恋仲になって良い音楽が作れるわけがない。音楽をみんなで作るとは、ときにいがみ合うことであり、憎み合うことであり、そういう経験を経て洗練されていくからだ。愛し合うだけじゃ、甘い蜜だけじゃ、心の深くまで潜っていくことは難しい。リスナーは他人の「恋人といちゃいちゃして楽しいでーす!うふふ」って曲ばかりでは離れてしまうだろう。

 

 バンドメンバーはバンドメンバーでしかなければ、続きようもない。遊びではないから。

    そこでメンバーに手を出してしまうなんて、ましてやちんちんを出してしまうなんて、それはもう、ほとんどそのバンドを捨てる覚悟に等しい。

    バンドを解散して、ユニットを組んだ方がいい。

    あるいは、別々のバンドであった方がいい。

 

    人間はすべてを手に入れることはできないのだ。

    それは夢でしかない。

 

 

    でも、夢を追わなきゃバンドじゃねぇ。

    うるさい奴らは全員ギターで殴ろう。グレッチで。

貨物列車に揺さぶられて

  物列車が好きだ。

 特に、貨物列車の先頭車両で、貨物を牽引しているあの、機関車が好きだ。

 

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 「力」に特化している。

 詳しいことはよくわからないのだけど、あの先頭の一両が十両数重量を引っ張らなければならないのだから、力持ちであるのは当然だ。

 

 あの「力」を前にすると、私の中の男の子がきらきらと目を輝かせる。

 ディスカバリーチャンネルエド・スタフォード氏が言っていたことを思い出す。「材木を運ぶと男としての自信が湧いてくるのです」みたいな言葉。

 私は貨物列車を見るとその「自信」の片鱗に触れる。男としての「力」の誇示を見ているようでなんだか気持ちがいいのだ。

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 先頭車両が何も牽引せず走っていたり、1・2両の貨物や、なにも載せていない車両を引っ張っていると、なんだか物哀しい気持ちになる。「力」を持て余しているようなのだ。

 逆に、大量の貨物をのろのろ運んでいるさまは見ていて喜びがあり、「よしよし、よく働いているな」と、ピラミッドの巨大な石材を運ぶ奴隷を監督するエジプトの労働官の気分になって「今夜はビールを与えてやろう」なんて言いたくなる。

 

 貨物列車という名詞に性別を与えるなら、間違いなく男性名詞だと思う。

 あの、武骨さよ。

 あの、轟よ。

 あの、「力」よ。

 

 牽引する姿は、重ければ重いほど汗水たらして働く労働者そのもので、驀進(ばくしん)する姿は労働のための労働という本来的な喜びに見える。

 あるいはそう見えるのは、私がエジプトの労働官的であるからかもしれない。

 働く方はたまったもんじゃないのだ。

 

   ↓

 

 昔の恋人にそんな話をしたことを、貨物列車の通過の風に乗って思い出す。

 昔の恋人も貨物列車がいちばん好き、と言っていたなぁ。

 

「どうして?」

恋人(旧)「男らしさとかはよくわかんないけど、わたしは貨物列車で妄想できるから好き」

「妄想?」

恋人(旧)「うん。ルパン(3世)が銭形警部に追われてね、車両倉庫を見下ろせる歩道橋まで追い込まれるの。下には貨物列車が停まってる。ルパンは歩道橋から飛び降りて、銭形は驚く。ルパン!死んだか!」

「ふむふむ」

恋人(旧)「すると停車していた貨物列車が走り出して、ルパンは貨物の載っていない車両に降り立っていて、まんまと逃亡するの」

「なるほどね」

恋人(旧)「だから、貨物列車は貨物が載ってない方がいい。ていうか、載ってたらルパンは逃げられないから」

「でもそれじゃあ機関車は持て余しちゃうじゃん。”男”を」

恋人(旧)「別にいいじゃん。そこのところだけど、さっきから何を言っているのかぜんぜんピンとこなかった。男ってなによ。貨物は載っていない方が絶対に良い」

「絶対なんてものはこの世にないよ」

恋人(旧)「あるよ。たとえば、貨物列車に貨物が積まれてない方が絶対に良いこととか」

 

 貨物列車には貨物が載っていない方が絶対に良いらしい。

 

 昔別れた恋人のことだ。もう昔のことで、今はもうない。

 思い出すことはほとんどないけど、貨物列車が通過するとき、どうしても頭の片隅にあの子が一緒に通過して、心をすこしだけ、甘くざわつかせる。

 

 だから、貨物列車に貨物がたくさん載っていると、私は少し落ちつく。

松山城とそのリフト、道後温泉、うどん等について

  山城に行ってきた。 

    愛媛県松山市を観光するなら、松山城は欠かせない。ここを行かなかったら時間が余って仕方がないからだ。

 

    松山城は城下の商店街の中に入り口があり、そこからロープウェイ、またはリフトで城山に登山することになる。

    私たち家族はリフトを選択した。

「揺れて怖いに決まっているから、リフトにしよう」

    そういう理由で母はリフトを選択したのだが、たぶん思考回路が焼き切れているのだろう。

 

   リフトは1人乗りで、ブランコがぶら下がっているみたいに頼りないものだった。

    乗車場でリフトは素早く転回し、「早く乗れよ」と言わんばかりに私の膝を押して、座らせる。

    生意気なリフトだ。

    おそらく、暑さと単調な作業による徒労で疲れているのだろう。  ブラック・リフトである。

 

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     楽しそうでしょ。

     心許ないでしょ。

 

     特に固定する棒やベルトなどはなく、単に座っているだけなのだ。見てわかるように、椅子は駅のベンチみたいなツルツル滑るやつで、なんかちょっと掴まってないと、怖い。

    ものすごく揺れるわけではないけど、まったく揺れないかというとそんなわけはないので、不意にがくんと来たとき、ハッとする。下腹部がひゅんとなる。

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    ときどき、下山してくる人とリフトですれ違う。

    その人たちは、なぜか高確率でソフトクリームを食べている。

    リフトに乗りながら大人しくソフトクリームを食べ、景色を見つめ、暑そうに汗を流しているおじいさんやおばさん、お兄さん、なんかみんな可愛くて、ちょっと動物的だった。

    ソフトクリームにつられて、この怖いリフトに乗れと言われたのかもしれない。

 

「リフトに乗ったら、ソフトクリームあげるよ」って。

 

    あるいは、リフトが怖くて泣いてたので、案内のお兄さんにソフトクリームを渡されて恐怖を誤魔化されたのかもしれない。

    到着前にソフトクリームがなくなったら大変な騒ぎになるだろう。どっちが先か。

    太陽光でソフトクリームがぼたぼたこぼれているし、もしかしたら下に落としてしまうかもしれない。そうなったら大変だ。リフトが止められる可能性もある。

 

 

    ↓

 

 

    松山城は、すれ違ったどの人も言っていたのだが、「意外と良かった」。

    ちゃんとした城だったし、情緒もあった。展示も過不足なくて疲れなかったし、城の中を急な階段を昇り降りしてウロウロできて楽しかった。

     石垣が美しかった。

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    舐めてると意外に思うだろう。

    その辺の観光城と同じくしてはならない。城のある街っていいなぁと思える城である。

 

 

    帰りもリフトで下山した。

「行きはリフトですごく怖かった。ちょっと泣いちゃったくらいよ。帰りもリフトがいい」母は言った。

    やっぱり思考回路がショートしておかしなことになっているのだろう。

 

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    ひゅんひゅんする。

    この、ひゅんひゅんするのは、一体どの部分がひゅんひゅんしているのだろう?

   「ちんちんのあたり」がひゅんひゅんしていることはわかるのだが、ちんちんそのものがひゅんひゅんしているわけではない。

    実体のない伝説上の臓器がひゅんひゅんしているのだろうか?「三焦」みたいな。

    どうしてひゅんひゅんするのだろうか?

    動物はみなひゅんひゅんするのだろうか?

    女の子もひゅんひゅんするのだろうか?

    女の子がひゅんひゅんする場合、いったいどこの部位でひゅ(以下自粛)

 

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    乗り場に、「悪い夢に出てくるタイプ」のダルマがいた。

   鬼滅の刃』の鬼か、GANTZの星人みたいだ。

 

 

    ↓

 

 

    そのあと、道後温泉へ行った。

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     湯を浴びたあと、道後亭という 饂飩屋で饂飩(うどん)を食べた。

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    たっぷりの薬味を混ぜていただく饂飩は、温泉で温まった体をさらに血の中から温めてくれるようで、その刺激を楽しみながら、さらっと食べられた。饂飩も手打ちとあって喉越しが良い。

 

    でもたぶん、お子さまはこの饂飩食べれないだろうな〜と思う。辛味と苦味があるし、なによりそんじょそこらのお子には、この美味しさはわからないだろう。

    そういう点で、私は大人になって良かったと思う。

    少なくとも体と感覚だけでも。

    あるいはそれは鈍くなった証拠なのかもしれないけど、ある程度鈍い方が嫌なことは少なくて済むのだ。美味しいものも増える。敏感より鈍感の方が、あるいは良いことも多い。

 

 

    ↓

 

 

     松山市漱石の『坊ちゃん』や正岡子規を激推ししているけど、そろそろこの推し方は危ないんじゃないかと思った。

    なぜなら、『坊ちゃん』を読んだことのある若者は下手したらクラスに1人もいないだろうし、正岡子規を知っている人は「インテリ」なんて呼ばれている人ばかりだからだ。

    はっきり言ってオワコンなのだ。

    私のような文学青年だとへぇ〜なんて思って楽しいのだけど、それ以外の人にしたら、なにそれどこの坊ちゃんだい?って具合だろう。

 

    私は好きだけど。

 

 

    以上、松山からお送りしました。

    帰ります。

 

負けても親の墓には参らねぇ

  父がくたばって以来、半年ぶりに墓へ行ってきた。

    四国の島、ど田舎である。

    瀬戸内海に面し、美しい青と光がある。静けさがある。山々の静謐な緑があり、柑橘畑に青い実や少し色付いた実がつぶらに風に揺れている。それ以外には何もないのだが、人生ってそれだけでいいんだな、と思えるような、そんな素敵な島に、祖先の墓はある。

 

    伯方島、という島で、塩ソフトを食べた。

    ドルフィンファームしまなみ、というところで食べられる。

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    甘じょっぱくて美味しい。

    私はソフトクリームを食べるために生まれてきたんだな、と思いたくなる、美味しさと太陽だった。ソフトクリームは暑い陽の下でダラダラ垂らしながら食べるにかぎる。

 

    瀬戸内海は湖のように静かで、鏡面のように波がない。透き通っていて、空の青をうつす。海面ギリギリまで森の緑が迫り、北欧のフィヨルドみたいだ。

    美しい青ってこういうことを言うんだな、と穏やかな気持ちになれる。うちの地元の海とは大違いだ。地元の海は猥雑で、黒い。ここの海は憧れのように青くて透き通っている、幻想の青春みたいだ。

 

 

    ↓

    

 

   父の、というか先祖の墓は、この美しい瀬戸内海の、こじんまりとした寺にある。

   島は過疎化が進んでいたり、多くの檀家が島を出て行ったため、墓参りに訪れる人が少ない。だが、花で賑わっている墓地だ。

    その花は、台風が来ても、秋になっても、冬になっても、枯れることはない。

    造花だからだ。

    どの墓にも造花が差してあり、その色は虚ろに見える。

    数年に一度しか来ないし、住職以外に管理をしてくれる人もいないというので、気を遣って造花にしているのだが、あまりにも空虚というか、ある意味で心がこもっていないというか、墓参りとはそういうものじゃないんじゃないの?と思う。

    墓参りって、合理性ではないんじゃないの?と思う。

    造花には造花の心があるのかもしれないけど、花は枯れるから自然なのであって、故人は枯れない花を見て喜んでいるのではない。遺族の訪問を喜んでいるのだ。

    頻繁に来られなくても、来たことを誇りに思うといい。後ろめたさを感じることなんてない。

    後ろめたいから造花を差している、その姿勢が気に入らない。

 

 

    ↓

 

 

    父が死んでから、相続関連で本当にいろいろなことがあった。

    父の最後の妻(3人目の妻。私の母は2人目の妻である)は気が狂っていて、父が延命治療を受けている最中に遺産相続の話をしだす人間だったのだが、そういう人間性なので現在周囲の信用を一切失っていて精神を病み拒食症気味になって幽鬼のようで、それなのに異様に元気というか刺すような痛い力強さがあり何を考えているのか底知れず、話がまったく(一切)噛み合わないしこちらが言ったことを無に返す返答しかしないので彼女の近くにいるとこっちまで精神病になりそうで(そういうところも元来あって周囲から人が離れていく)、彼女の目はこの世を見ておらず、いつサナトリウム(長期療養所)にぶち込まれてもおかしくなく、いつうちが燃やされるかもわからないそんな危険性をはらんでいるので、私たち家族はビクビクしながら過ごしている。

    金の亡者みたいな悪徳税理士にはめられそうになったり、父の秘書に会社を乗っ取られそうになったり、本当にさまざまなことがあって、父の周りにいた人間がクソ人間ばかりだったということがわかり、父という人間がいかに腐っていたのかよくわかった。

    安心した。

    父を心置きなく憎むことができるのだ。

 

    本当にいろいろなことがあったし、私たち家族は大きく深く傷ついた。

    父さえいなければ。

    死んでからより強くそう思うようになった。

    父がいなければ私はこの世にいなかったけど、それと秤にかけても父が存在せず私も存在しないほうがよっぽど幸せだったと思う。

    父にまつわるすべてが憎い。父のすべてが憎い。

    不倫に不倫を重ねてさらに不倫する、心の終わってる人間だった父。不倫で3股くらい普通にする人間だったのだ。頭がおかしかったのだと思う。ある意味かわいそうだったのかもしれない。気持ちが悪くて気味が悪い。

    そんな人間の血が半分も私に流れているのが気持ち悪くて仕方ない。個人的に他人を輸血して薄めたいくらいだ。

 

 

    ↓

 

 

    墓参りは、母と妹と、それから叔母夫婦で行った。

    3人目の妻と行くわけがない。

    現在弁護士を双方に立てており、接触を禁じられているのだ。そのうち法廷で争うことになるだろう。私たちみたいに法定相続分を公平に分けたい人間もいるし、そうではなく現金をできるだけ持ち出して罠にはめようとする人間もいるということだ。

 

    3人目の妻は、私たちより先に数日前に墓参りをしたらしい。

   今日墓を見たら、造花がさしてあった。

   半年前に死んだ夫の墓に造花をさしてる時点で、こいつがどういう人間かよくわかるだろう。

   

    私たちは造花を抜き、捨てた。

    私は先祖に祈った。どうか、私たち家族をお守りしてください、と。そして、父に心の中で伝えた。

「もう一回、死んでくれ。いや、あと3回死んでくれ。二度と、永劫に、何回生まれ変わっても私の前に姿を現さないでくれ」

   

    もう、父のために墓に参ることはないだろう。先祖のために来ることはあるだろうけど。

 

    私は瀬戸内海が好きだし、あの小さな寺も、静かな蜜柑畑も、廃れた道も店も家屋も、たまに歩いている老人も、空も橋も青も、なんだか愛おしくてたまらないのだ。

    墓には参らなくても、ここは遠い私の記憶の故郷だから、また来る日はあるだろう。

 

    そう思いたい。

 

 

    

ひこうき に のったよ

  行の楽しさのピークって、出発の空港だと思う。 違う世界に行く、ということを強く意識させられる。

    あの空港のにおいとか、アナウンスのキーンコーンカーンコーンってチャイムとか、動く歩道、忙しない人やのんびりしている人、さまざまな地域、国の人がウロウロしていて、すでに異国の予感があるし、空港にしかない特殊性が血を騒がせる。

    搭乗口のベンチに座って飛行機を見つめるだけでなんだか気分がいい。

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    線に沿ってきちんと停留している飛行機は、格式高いハイヤーの運転手のように見えるし、よく調教された血統のよい馬のようでもある。私たちが乗るのをじっと待っているのだ。

 

    それにしても飛行機って大きい乗り物だ。

    大型客船や空母の次に大きい乗り物なのではないか。一見すると乗り物というより、おかしな形の家に見える。

    家には見えないか。

    でも、私が江戸時代からタイムスリップしてきたお侍だとしたら、飛行機を見てこれを乗り物だとは思わないだろう。

 

💁‍♂️「いや、乗り物なんすよ笑 どうやって移動する乗り物だと思う?」現代の案内人が私をからかう。

🐜「ううむ……車輪がついているな。地面を走るのではないか?あの、バスとか申す鉄牛みたいに」

 

    空を飛ぶ、なんて発想はまず出てこないだろう。

    両側に付いている腕のようなおかしな部品が「翼」だと言われても、それが空を飛ぶとは思えない。

    当然だ。鳥が空を飛べるのは、小さいからだ。巨大な金属の塊が高速で飛行するなど誰が考えられるだろう?そういう者は戯作者にでもなればいいのだ。空を飛ぶなんて妖術の一種だ。歌舞伎や浄瑠璃の世界だ。

 

💁‍♂️「あはは。だよね〜笑 あれ、空飛ぶんだよ笑」

 

    バカにしやがって。

    拙者を愚弄する輩は許せぬ。武士の魂を穢すな!

    そこで拙者は目にも留まらぬ速さで鞘を抜き、白刃一閃、「ぎゃああああああ!」男のまぶたを縦に裂き、鼻を削ぐ。

    二度と目を潤すことはできないし、花の香りを楽しめない。

    拙者は残酷なのだ。

 

 

    話が大きく逸れてしまったが、飛行機とはいいものだ。

   空を飛ぶという人間の原始的とも言える憧れを叶えた乗り物なのだ。

   とてもロマンがある。

   人間のたゆまぬ努力と進化、科学の力は空を飛ぶ夢を叶えるために発展してきたのだ。

   その尊さを想うと、人間て素敵だなとか、人間のそういうところは神様が作ったものでなくてよかったなと誇りに思えるのだ。

 

    飛行機のフォルムにはいっさいの無駄がない。合理的で論理的な構造だ。

    空を飛ぶとはそういうことなのだ。

    飛ぶために人は翼ではなく、思考を使っている。思考は空を飛ぶことを考え、そのうち本当に空を飛べるようになる。それには数千年かかったけれど。

    人間て思考のかたまりで、思考って可能性のかたまりなんだなぁと思ったら、私はどこにでも行けそうだった。    

 

   空はどこまでも繋がっている。あの世でさえも。

     

なぜスターバックスはコーヒーチェーン数日本一なのか?

  デートのたびにスタバへ行く。

    特別スタバが好きなわけではなく、熱心に新作をチェックしているわけでもないのだが、ほぼ毎回、デートのたびにスタバへ吸い込まれていく私たち。

    なぜなら、スタバはそこら中にあるからだ。 

 

    ちょっと疲れて休憩しよっか〜とあたりを見回したところ、だいたいある。

    都内で行動することが多いのだが、まじでスタバはそこら中にある。

    スタバないかな〜と思ってるとひょいと出てくることもある。なんだこいつ……!おれの思考を読んでる!!そう思えるくらい、念ずると同時にスタバは登場する。ほぼすべての駅の付近にある。

    それだけ店舗数が多いコーヒーチェーン店なのだ。日本一店舗数の多いコーヒーチェーン店らしい。

    鳥取?だか島根?だか忘れたけど、あのへんのよくわからない県?郡?だかでもスタバはあるくらいなのだ。集落だったかもしれない。そんなところにぽつんとあるなんて、それはすごいことだ。廃墟に美しい花瓶が置いてあるくらい不自然なことだ。

 

 

    スタバはなぜ人気なのだろう?

    はっきり言ってコーシーを飲む場所ではない。スタバのコーシーを高銭はたいて飲むくらいなら、ちゃんとした喫茶へ行って紙コップではない陶器でコーシーをしばくべきだ。

    スタバはコーシー以外の飲み物を楽しむ場所である。

    スタバのコーシーを飲むならドトールの方がずっといい。安くて美味い。それに、タバコが吸える。

 

    今どきスタバで勉強をすることや紙コップであのコーヒーを飲むことがステータスだと思っている虚しい人間はいないだろうけど、でもスタバでノートPCを開いて作業していたり、勉強している人はなんだか格好良く見えてくるのは不思議なもので、その心理もわからなくはない。

    ただ、そういった「なにかできそうな人たち」のうちでも半分以上は作業に集中できていない「スタバで作業をしている私カッケー勢」であり、目が泳いでいたり、しきりに甘汁をすすったりしていて全然格好良くないし、私のような「趣味:人間観察」の痛い人間には全然バレているので、気をつけたほうがいい。

 

    スタバはなんだか落ち着く。ほかのコーヒーチェーンと違って、長居をする人が多い傾向にあると思う。

    それだけの空間を作り出せているし、フラペチーノは美味しいし、なによりも多少高価であるという一見マイナスなことがステータスを作り出していて、特別感を与えているのだろう。

    庶民の庶民らしさにつけ込んだうまい価格設定だと思う。

 

 書いていてふと疑問に思ったのだが、スタバは心地よいのだろうか果たして。

 私は最近になってスタバに独りでいけるようになった。ここ1、2年のことだ。

 あの独特の、一見ハイソな「輪」に慣れてしまえばなんてことのない場所なのだが、それがむつかしい人にはむつかしい。

 私も「ステータス」の甘さにつけこまれた人間の一人なのかもしれない。

 

 スタバが好きだ。