蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ドラマ化と140字小説の今後について

よく、書いたものが誰かの目に留まって実写ドラマ化されて、放映され、先日放送が終了した。

私は140字小説界隈では弱小の部類、なぜ私が?という疑問もあった。

実力どうこうではなくて運が良かったのだ。運が良くて良かったと思った。

 

 

まだ無料配信中なので、よかったら見てほしい。

主演の鈴木愛理ちゃんは特に可愛いので、よく見てほしい。(私は鈴木愛理ちゃんみたいな妹がほしい。鈴木愛理ちゃんの兄になりたい。)

崎山つばさ さんも演技の幅が広くてこれから楽しみな俳優さんだ。

 

私の原作は第二話で使われている。

 

 

この作品のタイトルは『泥棒だ!』

オチで正体は泥棒とわかる叙述トリック的なものを目指して書いたのだけど、ドラマだと一概に泥棒とも言えなくて、ストーカーとか霊とかさまざまな見方を読者(視聴者)に委ねる脚本になっている。

ドラマ自体が「さまざまな解釈ができる楽しさ」をテーマのひとつにしているみたいだったし、私は学生時代に原作とメディアミクス化について学んだこともあり、原作改変については原作者ながら特に不満も持たず「へぇ、こうやって脚本家と監督は解釈して作品に仕上げたのね」と面白く見ることができた。

鈴木愛理ちゃんが私の原作のせいでなにかしらの変態になってしまった、それだけで大満足である。

 

 

10月か11月くらいに読売テレビの方にお声がけいただき、それから情報解禁までの間に、私は数えるほどしか140字小説を書いていない。

ドラマ化に向けて、ちょっとでも盛り立てようと半ば義務的な気分でいくつか書いたに過ぎない。そうしないと、こんな弱小なアカウントがドラマ化なんておこがましくて申し訳ないと自意識過剰に思っていた、強迫的な気持ちだったのだ。

でも、書けなかった。

 

なぜなら、私の中で140字小説はもう「終わったもの」で、自分で書く気も起きなければ人の作品を読む気にもなれないでいるのだ。少なくとも前ほどの熱意を持って読めなくなってしまった。

 

自分でも急激に冷めたのが怖い。ここ一年半くらいそういうかんじで、はっきり言って自分の中でオワコンになってしまった。

一度冷めると怖いもので、ぜんぜん次の話を考えるアイデアも浮かばなくなる。全盛期はイエローストーンの泉のように湧いていたアイデアが、いまや小便小僧の残尿みたいになってしまった。

ちょろ……ちょろ……。

そしてそんなアイデアは近づくと異様なニオイがする。溶けたバターみたく黄色く泡立っている。

自分でも「どうなんだろう。つまらないな」って気持ちで書いた140字小説は、もちろんつまらない。

 

この一年半くらいはどうやって、どのようにして区切りを付けようか、その問題を放置したままダラダラ過ぎてしまった。

辞めるに辞めれない、なにか中途半端だな、と自分の中でも有耶無耶にしていた。結局どうしたいのか自分でもよくわからなかった。

そんなときにドラマ化の話が来て、ああ、よかったと私はまず思ったわけだ。

「これで一区切りいれて、辞められるぞ」

 

 

趣味でぷつぷつ書いていたものがドラマ化されて、それ以上私はもうなにもいらないし、こんな幸福なこともなく、たいへん満足でした。とても恵まれている。信じられないほど。

140字小説を書いていたことでできた繋がりもあって、いくつも心を動かされたことがあるし、書いてきた後悔というものはまったくないです。

ありがとうございました。

 

でももう冷めちゃったので、今後140字小説を書くことは無いでしょう。

 

楽しかった~。

 

 

 

ブログとTwitterは辞めないけど、140字小説はもうやりません、という話。

たまーに、思い出したように書くかもしれないけど、「140字小説の人」としてやっていくのはこれで区切りにしたい。

会社のロビーで飲む缶チューハイの適切な温度

事を辞めるのなんて簡単だった。

唯一難しかったことは、上司にどのように話を切り出すかタイミングを見計らうことだけで、でもこれだって勢いに任せればなるようになり、辞める理由の嘘なんてその場の思い付きで充分だった。日頃からブログで嘘を書きまくっているから慣れていたのだろう。

 

「実家の喫茶店を継ぐことにしました。そこ一本でやっていけるかはわかんないんですけど(こういうご時世ですしね)、でも父母ももう齢だし、私自身カフェが好きだったので、いつか継ぐつもりではいたんです。年初めに母が腰悪くしちゃって、それで帰省したタイミングでそういう話が持ち上がりまして……。継ぐタイミングが図らずもちょっと早くなってしまったので、急なことになってしまったんですけど……」

よくもまぁスラスラと言葉が出てくるもんだ。饒舌な私にたじろぎながら、課長はメモにペンを走らせ、話を訊ねた。

「実家って、茨城の?」

「はい、栃木寄りの」

「そうか、それはそれは……遠いな」

入社したときに地元を偽っていてよかった。あの頃、心を開けていない人たちに地元を教えたくなくて、なんとなく嘘をついてしまったのだ。でもそれが今になって活きた。

結局、誰にも心を開けなかったな。

 

 

あとはもう簡単。流れに任せればいい。

上司のさらに上の上司に話が伝わり、小さな面談をいくつか重ね(面談では一人も私を引き留める人はいなかった)、会社側の都合に合わせる形になったが、最初に話を切り出してから一か月半後の3月に退職が決まった(私は誰にも引き留められず、残念だとも言われなかったことに、しかしなにも思わなかった)。

私は辞めるべくして辞めるのだ。

 

次の仕事はもちろん決まっていない。

神奈川の実家に帰る選択肢もない。仕事を辞めることは誰にも話していない。知ったらきっとびっくりするだろうな、としか思わない。そして知る由もないから驚かないだろうな。

どうして仕事を辞めたの?と訊かれたらどう説明しよう。

実のところ、私にもうまく言語化できないのだ。

朝起きて、今日は熱海へ行き、温泉へ入りたいと思う。でも仕事があるから反対方面の電車へ乗ることは許されない。

朝起きず、15時くらいに起きて、そこから凝った食事を作りたい。でも仕事があれば15時は支払い伝票を作成しなければならない時間だ。

電話を取りたくない。伝票を打ち込みたくない。相手先と日程調整をしたくない。誰かのために働きたくない。自分のために生きていたい。海を見たい。風を感じたい。

無い実家のカフェを継ぎたい。

 

 

たぶん「自由になりたい」も理由として正しくないのだけど、うまく言葉にできるとすれば「自由になりたい」が最も言語化できない部分を説明してくれようとしている。

 

私は「自由になりたい」のです。

 

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退職の餞別にAmazonギフト券をもらった。

好きなものを教えたことのない私に贈る餞別として、これ以上のものはない。

 

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最終労働日、部署の皆さんの前で挨拶をした。言葉を尽くした絢爛な挨拶の一部をここで紹介できたらよかったのだけど、あいにく何を言ったか忘れてしまった。また出まかせの嘘をついたのだろう。なにも言っていないことと同じだ。

挨拶が済むと他の方は足早にデスクに戻り、仕事を続けた。

私は荷物をまとめ、あとは一瞥もせず、オフィスを後にした。

 

エレベーターホールまで課長と先輩が送ってくれた。

「それじゃあ、元気でやれよ」課長が私の肩を叩く。

「はい。ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました」

「  」

先輩もなにか言ってくれたが、忘れた。それが出まかせの嘘だとわかっていたからだろう。なんだっていい。この先輩に会わなくていいのだと思うと晴れ晴れする。それだけだ。

 

 

ビルテナントのローソンで一番高い缶チューハイを買った。

度数のはなし。

ロビーには曇りガラスのしきりに囲われたテーブル席がいくつかあり、その一角に座って、退社する人々の靴音を聴きながらプルタブを開けた。張りつめた炭酸の抜ける音は天井の高いロビーにこだまするには弱弱しく場違だった。

冷蔵庫に入れたばかりだったのかひどくぬるくて、ツンとしたアルコールのにおいが安っぽい。弱者の飲み物は名前と数字だけ威勢よく強がるものだ。酒が私を支えてくれたことなんて一度もない。

 

曇りガラスに囲われているから外は見えない。ずらずらと靴音が連なって、スーツを着た人たちが退社する日常の音が向こう側から聞こえてくる。足音はひとつの塊になって、そうと知らなければ巨大な虫が這う音にも聞こえる。

あのうちのひとつは嫌いだった先輩のものかもしれないし、人のいい課長かもしれないし、名前は知らないけど可愛かった新人かもしれない。私は曇りガラスを隔ててそれを確認する術もない。曇りガラスに囲われたこのスペースの隅は何もかもから死角になっている。

なんにせよ確かなことは、私の足音はあの中にもういない、ということだ。

ぐびり。

Amazonギフト券、どうやって散財してやろうかな。口座の残高は怖くてもうずっと見ていない。でもなんとか生きてるし、これから死んだっていいのだ。

自由なんだから。

もうおれは、あちら側じゃないのだから。

ぐびり。

退職したらぜったいにここで酒を飲むって決めてたんだ。ずっと前から。

ああ、ツマミも買っておくんだった。ぬるいなちくしょう。

私のゴミを捨てるのは誰だ

社のデスクの下にはひとりひとつ、ゴミ箱を与えられている。

膝下くらいの大きさで、ひとつひとつデザインは異なるのにどれも円筒状で古いことは共通しており、ゴミ箱的な汚れを付着させてデスクの下にジッとしている。

このデスク下のゴミ箱は勝手にゴミが消えるわけではないので、オフィスに設置された大きなゴミ箱に定期的に中身を捨てに行かねばならない。

 

毎日ごみを捨てる人、金曜日に必ず捨てる人、時々捨てる人、そしてまったく捨てない人。大きなゴミ箱にゴミを捨てる周期を見ているとその人が綺麗好きかどうかくらいわかる。

毎日捨てる人の机の上はいつも綺麗にしてある。

私の先輩は毎日捨てる人で、デスクの上はチリひとつ残さない。デスクどころかPCのデスクトップにもファイルは一切無くて、すべてがネットワークドライブに収まり、MicrosoftEdgeやTeamsやAdobeといった最低限のソフトウェアと「ゴミ箱」だけが画面左端に銃殺刑囚よろしく整列させられている。どこか居心地悪そうにも見える。

でも、綺麗にしているから仕事ができるわけではない。

綺麗好きと仕事の出来は比例しないのだ。

 

同じように、掃除ができないことと仕事の出来も比例しない。

私は掃除ができないうえに仕事もあまりできないので、まぁ、最低なのだが、仕事ができないなりに汚くしているので、周囲からはわかりやすくていいんじゃないかと自負している。綺麗好きで仕事ができない方が、あとから印象が悪くなるリスクが伴うので、私なりの自己防衛というワケ。

 

 

私は、捨てればいいのにゴミをぜんぜん捨てられない。

書類以外の屑はなんでもかんでもポイポイ足元のゴミ箱に放り込んでしまう。可燃・不燃関係ない。圧倒的火力こそが正義。すべてを焼き尽くす拝火信仰だ。

そうしてしばらくするとこんもりとゴミが溜まるが、しかし、まだ私は捨てられず、無理やり押し込んで「ギチギチ」ゴミたちのひしめく音を聞いてハラハラする。

「ゴミが爆散したら、今度こそ僕は馘(くび)だろうな」

押し込められたゴミ箱はブルブル震え、今にもポップコーン・パーティのようにゴミを弾け出しそうだが、私はそこに甘えを許さない、さらにゴミを投下する。

なぜこんなにゴミが出るのか自分でも不思議だ。私という存在はゴミを生産するために生きているのかとすら思う。

いよいよ限界らしいが、(よせばいいのに)私はゴミ箱の中身を大きいゴミ箱に捨てに行かず、そのままにして帰ってしまう。

「明日こそ捨てよう」と思いながら何日も放置する。

「明日こそ捨てようって昨日も思ったな」

捨てられない。

 

 

ところで私のデスクは部長の席の目の前にある。

部長は綺麗好きな人で、しかもとても有能という、私とは正反対の存在だ。見た目と中身が一致していて、年齢を感じさせないキレのある思考を持ち、若い社員からも慕われている。すべてにおいて私と対偶だ。

部長の席から私のゴミ箱は丸見えで気まずいので、私はゴミが溜まるとゴミ箱をなんとか隠そうとデスクの奥へ押しやったり、カバンで隠したりしている(捨てればいいのに)。

「君、早く捨てなさいよ」と言われたくない。なぜなら私は25歳で、いっぱしの社会人で、ちゃんとした大学も出ていて、そんなことで指導を受けていいわけがないからだ。だからゴミ箱を部長から隠している(捨てればいいのに)。

 

 

ゴミを捨てられないまま何日も過ごし、そろそろ誰かに怒られるんじゃないかと危惧する日々を送っているのだが、それでもなお、この期に及んでもまだ捨てられなくて、たぶんなんかこういう病気なのかな、って最近は開き直っているのだけど、ある日突然誰かにゴミが捨てられていることがあり、これは誰かからの警告だと思うから、本当に直した方がいい。

 

 

誰かが私のゴミを片付けてくれる。

出社したら、ゴミ箱が空になっていた。

あの大量のゴミを。冒涜的なゴミの量を。許容量を250%オーバーしているあのゴミを。

いったい誰が、わからない。

好き好んで私のゴミを捨てるのは誰だろう。

 

 

こういうことはこれまでに3回あった。今回が初めてではない。

私はこの一見好意に見えるゴミ捨てを、しかし、「警告」として受け止めている。

「部長の目に入るんだぞ、はよ捨てんかい。だいたい社会人の癖にゴミも捨てないでなにやってんだ。ここはお前だけのオフィスじゃないし、お前の部屋でもない。ゴミは捨てろ。常識的に」

無言にしてそう言われている気がする。

 

誰が捨てているのかかなり気になるが確認する手立てがない。

「先輩、私のゴミ捨てました?」なんて訊けない。

「あざーっす」なんて言えない。

個人のゴミを無言のうちに捨ててもらうなんて恥ずべきことだからだ。

 

 

でも、まぁ、先輩が捨ててくれてるならまだいいよ。

 

 

もしも、部長が捨てているのだとしたら……?

目に余る惨状に堪らず、お手を煩わせているのだとしたら……。

 

警告は「お前を捨てるぞ」とさらに恐慌を増すことになる。

 

 

 

本当に、いったい、誰が捨てているのだろう。そういう霊?

今後について

週は仕事がきつかった。

なんとか金曜に一山越えたのだけど、来週からもう一山あるので、この週末は終末と思って最後の余暇を味わうつもりだ。

かつ丼大盛りを3ぶり(どんぶりの数詞って「ぶり」であってる?)食べた後に豚骨ラーメンを食え、替え玉しろ、味卵を7個つけろ、と言われているようなものだ。

かつ丼大盛り分のノルマはなんとか終わらせたけれど、とても並行して豚骨ラーメンを片付ける余裕はなかったから、来週は豚骨ラーメンノルマが一気に押し寄せてくるし、これらのタスクと並行して日々の依頼作業や案件もあり、当然それらには一切手を出せていないので、一体、どうなってしまうのか、あまり考えると食傷気味になって気持ちが悪い。

 

忙しいと、帰って食事をして風呂に入り眠るだけの生活になる。

それを続けると案外生活リズムができて楽になるのだが、ずっと心の余裕がなくて、睡眠の質も悪い。仕事の夢ばかり見てしまう。

 

私は小説を書きたいのだが、小説を書くにはとてつもないエネルギーがいる。

20代前半は、暇だったこともあったし、そういったエネルギーを持て余していたから小説を書くことができていたけど、いまはその余剰もなく、なんと、140字小説を考えるエネルギーすら残せていない。

こうしてブログを書くことに精一杯だ。

 

ブログも好きだけど、小説を書きたい。

 

ブログをなんとか書き終えて、眠ってしまう日々が続いている。

 

 

私は思った。

小説を書きたいのだ、と。

 

 

これまでできるだけ毎日ブログを書いてきたけど、これからは「毎日」に縛られることなく、気ままにやっていこうとおもう。

なにも書くことが無かったら書く必要もないのだ。

とは言えブログも好きだからたまには書くけど、今後はこれまでより更新頻度が落ちると思ってください。

ドライブ・マイ・カー

うしばらく自動車の運転をしていない。

村上春樹はエッセイの中でオートマ自動車を「単なる移動手段」と揶揄していたが、そう言われても私はオートマ免許だし、オートマでも車の運転は楽しいものだ。(でもマニュアルの方が自動車と一体感があるだろうし「単なる移動手段」ではなくなるのだろうな)

 

 

運転したくても車がない。

そういうときはBeatlesの「Drive My Car」を聴くにかぎる。もっと言うと音源に合わせて楽器を奏でるとよりドライブ感を得られる。

youtu.be

 

この曲はベースとギターがユニゾン(同じ音を弾いている)で、二つの楽器のメロディラインを耳で追いやすいからよく聴いてほしいのだけど、じつに不思議なメロディを奏でている。

歌のメロディとぜんぜん違う曲みたいだ。ふたつの異なる曲を合体させてみました、と言われてもそうかと信じるかもしれない。

それなのに曲として聴いたとき、歌とギター・ベースラインは調和しており、リズムも相まって腹の底でエンジンがうなるような快感を覚える。

なんだろうこの曲は。大好きだ。

 

短いイントロについて語るべきことがある。ビートルズにはそういう曲が多く「Drive My Car」のイントロもご多聞に漏れない。

ギターの転がるようなメロディはたぶん、車のキーを捻ってエンジンに着火し空気が入り込むときの音だ。ガスコンロに着火するときに似ているあの音。ガチチチチチ、と車が目を覚ます音。

そして3拍目の表の裏みたいな絶妙のタイミングで入ってくるベースの太い音はきっと、エンジンのブルルンという唸りだ。

まったく天才的なタイミングで、しかもこのタイミング以外にはあり得ない。排気ガスのにおいまでしてきそうだ。自然発生的だけどドラマチックで、何気ないのが格好良い。

このイントロの「これから車を運転する」かんじは演奏してみるとなおよくわかる。一緒に弾いてみると、これは馬でもなく自転車でもなく飛行機でもなくサーフィンでもなく、自動車に他ならないという確信めいたものがある。イントロの終り、歌へ入る直前の四分音符(たぶん)はドアを閉めたあとの余韻すら含んでいる。

 

歌詞に出てくる女は「私はそのうちスターになるから、あなたは私の車を運転なさい」と言う。「きっといい思いをさせてあげるから」

男は「今すぐにでも運転しよう」と言う。

でも実は女は車なんて持っていなくて、「さきに運転手を捕まえたのよ」とチャーミングに笑う。(きっと笑ったはずだ)

それで、まぁ、やれやれ、って感じの、ただそれだけの歌なんだけど、結局僕たちはいつだって女にノせられてる。もちろん、好きで。

 

男女ってちぐはぐな存在で、右車線と左車線みたいにすれ違うことも多いけれど、ギアのように噛み合えば大きな感情を動かせる二人でひとつの関係でもある。

それはソングラインとギター・ベースメロディのそれぞれの奔放さと調和の関係によく似ている。

 

 

間違えたところを何回か繰り返す。

サビのピアノは裏拍で入る(多分)のだけどそれが表拍のギターとずれていて気持ちが良い。あ、ここで入るのね、ってずっと意外なのだ。このズレを感じるたびに、車の窓の外の流れる景色をイメージする。光。音。風。

ギターソロをなぞり、サビに戻り、また冒頭へ飛んで、最後はどこまでも走り続けるアウトロのその先に思いを馳せる。

ダウンタウンの真っ直ぐな通りが目に浮かぶ。

 

この曲は私をどこかへ連れて行ってくれる。単なる移動手段ではない。

残念だが痔の疑い

の疑いがある。

痔になったかもしれない。

え?

私は何をすればいいのだろうか。

 

月曜くらいからかな、お尻を拭くときヒリッとして、月曜日はまぁ、その程度の痛みだったんだけど、火曜くらいからヒリッがビリッになってきて、気を付けないと「あう」と声が出てしまい、それはなにか、そう、肛門に明確な電流が走るような痛みである。

 

痔とは何か、調べてみる。

一言で痔と言ってもさまざまな種類があり、たとえば山陰地方の各県くらい性質がそれぞれ異なる。なぜ山陰地方を喩えに引いたのか自分でもわからないが、切れ痔とイボ痔は島根県鳥取県くらい異なるものなのだ。

私の症状はどれにも該当しないような気がするし、どれにも今後なる可能性を秘めている気もする。

言うなれば私の肛門の問題は今のところ「赤ちゃん」、これからどうにでも成長できる可能性を秘めている、「痔のイーブイ」なのだ。

 

どの痔なのか、そもそもこれは痔なのかもわからないが、普通にしている分には痛みも無く存在感も無いので(普段から肛門は存在感というものが無い)、とりあえずオロナインでも塗って様子みるか、と決めていたのだが、火曜の夜あたりから、肛門が違和感という名の存在感を醸し始めた。

普通にしていて、なんだかヒリヒリするのだ。

水平線の向こうに島影が見えているほどの僅かな痛みだが、それはたしかに「ある」。

いよいよか、と思う。

認めたくない。

 

 

痔には……

痔にはボラギノール

さっさと買うべきなのだろう。オロナインが効いていないどころか痛みを助長しているフシもあるこの時点でさっさと判断すべきなのだろう。

だが、ボラギノールを買ってしまったら自分で「痔」を認めることになり、またボラギノールが効いてしまったらそれは「痔」であるという証明になる。問題を解決したいのにもかかわらずそれに至るには「痔」を認める所からはじめなくてはならないのだが、それができない。怖い。痔にはなりたくない。

これをボラギノール・ジレンマと名付けた。

だいたいボラギノールって名前が怖い。白か黒かで言ったら黒だし、善か惡かで言ったら惡側のネーミングイメージである。ボラギノール卿が死人を操る惨状が目に浮かぶ。

 

25で痔か。

でも大泉洋も20代から痔持ちだったし、痔に年齢はあまり関係ないのだろう。

年齢も性別も関係ない。すべての人が痔になる可能性を秘めている。だからみんなも痔になるといいよ。いい経験になるさ。

もう少し様子を見て(怖いとかじゃなくてさ、様子を見たいだけなんだ)、増惡して出血や異臭を伴うようになったらボラギノール卿に頭を垂れ、尻を上げようと思う。

そうなったときはもう遅いのだろうか?

手遅れの前に痔を痔であると認識しないと効かない?

これもボラギノール・ジレンマ?

なにそれ?

胃がむかむか、大地がぐらぐら

け方急に目が覚めて「?」と天井を見つめていたら地震が起きた。

昔から地震の前には目が覚める。

お、わりと大きいな、でもまだ騒ぐ大きさじゃないな、ちょっと長めだな、おさまってきた、、地震、、、と思っているうちにまた眠りに入る。

二度目の眠りの夢の中で大地震が起こる。

私は恋人に覆い被さり、ただふたりで無力に固まって、大地が割れないことを祈る。

水が出なくなる。電気がつかなくなる。ベランダから街を見下ろすと、むこうのほうで火の手が上がっている。

夢の中で私は「こうなったときのために今週末にでも備蓄を揃えた方がいい。僕の為でもあるし、彼女の為でもある。すくなくとも水とガスコンロはあったほうがいい」と鏡の中の自分に向かって喋っている。心臓にコブシをあてている。

わけはわからないが、言っていることは正しい。

 

地震が来る3秒前くらいに目が覚めるのだけど、毎回「?」となっていて、揺れを感じてから「ああ、地震予知で目が覚めたのか」とわかるので、この予知能力は意味が無い。目覚め即行動しないと3秒という時間ではなにも変えられない。

しかも変な時間に、睡眠の状態に関係なく目が覚めて、寝つきが悪くなる。朝目が覚めると胃の壁がぐずぐず爛れているような感じがする。

 

恋人に「明け方地震あったね」と言うと、彼女は「え?ほんと?」とまったく知らなかった顔をしている。

「ぐっすり眠ってた」

どうせ大地震になったら目が覚めるわけだし、私のような予知能力があっても意味が無いのだから、それならちょっとの地震でもすやすや眠っていられるくらい肝が据わっている方が良い。

「へぇ、結構揺れたんだね!え?地震のせいでそんなに眠れなかった?私はよく寝た」

それならよかった。

寝不足でむかむかする胃をおさえながら紅茶をすする。