蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

くっせぇくっせぇくっせぇわ

巾がくさい。

我が家では使う布巾をシンクの上に吊るされた棚に掛けておくのだが、これがまぁ、くさい。

台所で作業をしていると、布巾はちょうど顔付近で広げられ乾くのを今や遅しと待っているので、腐った水のようなニオイが鼻腔を刺激して食べたものを吐き出しそうになる。

濡れ布巾を所狭しとかけられた棚は布巾の壁のようになり、これを私は「臭壁(しゅうへき)」と呼んで忌避している。

布巾というか、腐菌(ふきん)である。

 

洗濯した後は臭くもないのだが、ひとたび皿などを拭いて水気を帯びると腐菌と化して私と同居人を苦しめる。

布巾のかけられたそばで蛇口をひねって水を飲むとすこぶる不味い。ニオイが水に混じって、上流でラクダが死んでいる川の水を飲んでいるような気分になる。生ぬるいとなお最悪だ。

最悪なのが、同居人の恋人がこれを嗅がせてくるのである。

「ほら!」と言って私の顔の前にぶら下げたり「ちょっとこっち来て!」と言って布巾の前へ誘導し嗅がせられる。

その度に私はのけぞったり飛び跳ねたりして不快を露わにするのだが、恋人はそれ見たことかとキャッキャと喜ぶ。どうかしてるのだと思う。

 

「くさすぎる〜〜嗅いでみなよ」彼女が布巾を私の顔の前につきつける。

「くっさ!なんこれ!くっさ!!!!」

「死ぬよね」

「死ぬね」

「もしDVを受けそうになったら、これで防御して、これを顔に投げつけよう」

「最強の矛と最強の盾が共存する稀有な例だ」

「うー、くさ。頭がおかしくなりそう」

「物理攻撃というよりも、精神攻撃に近いね」

「百均で買った使い物にならない おろし金よりも武器になりそう。おろし金に次いで、いや、もしかしたらそれ以上のチカラを持っているかもしれないな」

我が家には物騒なものが多い。

「ずっと嗅がされたら脳が死んで鼻血が出るんだよね」

「鼻血で済めばまだいい方だよ。この布巾を10分間絶え間なく嗅がされた者は人間としての尊厳を失うから」

人権を喪失するほどの。

「この布巾で闘牛してもさ、牛は襲ってこないだろうね」

「臭すぎてね。牛さえも」

とにかく破天荒に臭いのである。

 

布巾を嗅いだら「くっせぇくっせぇくっせぇわ♪」とAdoの「うっせぇわ」のメロディに乗せて歌うのが決まりだ。

臭い布巾が お歌の引き金になっている。

「はぁ〜?くっせぇくっせぇくっせぇわ♪」

「Adoもびっくり」

「あなたが思うより清潔です」

「ぜったい清潔じゃないだろ」

昨日は布巾を嗅いだ彼女が「くっさい!君の運命のヒトは僕じゃない♪」と髭ダンのPretenderに合わせて歌っていた。そして一人で爆笑していた。どうかしているのだと思う。

 

実際問題かなり不潔なので、一度煮沸消毒などした方がよさそうだ。

パンケーキを食べる生活

中にパンケーキを作っているときほど「大人になってよかった~」と思うこともない。

今回は腐りかけのバナナを消費するために、生地にココアパウダーを混ぜて焼いた。

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どら焼きみたいな見た目になった。

 

「どのご家庭にもあるもの」で写真映えするパンケーキを作るのははたして難しい。

チョコレートソースは高くて買わないし、ひとひらのミントなんて育ててない。土感のある黒い皿なんて持っていないので汎用性の高い白い皿に盛るしかない。もちろん、アイスを掬うためのあの工学的お玉も無いから、大きめのスプーンでむしり取るようにバニラアイスを引きはがして、高さが出るように盛り付ける。アイスはスーパーカップのバニラ、いちばん安いバニラだ。

バナナは98円で買った腐りかけのものだ。テーブルセットだってアウトレット品である。

この中で一番割合に値段が高いのはパンケーキミックスだろうか。

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贅沢だけどそこまで贅沢はしていない。

できる範囲で妥協を重ねつつも、満足のいく時間を過ごせている。

身分相応の楽しみだと思う。

 

最近、まじでお腹が出てきて、ああこのまま百貫デブになるんだろうな、となかば諦めている。そう、諦めている。驚くほど悲しくもない。

彼女に腹を揉まれて「あれれ?おかしいぞう?」と煽られる。しかし、くすぐったいなと思うだけで悲観しない。

太った原因は主に間食が増えたことだが、同居する彼女の食生活にも起因している。

彼女が夕食の米をあまり食べないために、私が彼女の分まで食べているのだ。毎回一合炊くのだが、食べる割合的には彼女が0.3合、私が0.7合かそれ以上を食べている。

引っ越した当時は半分ずつくらい食べていたのだがそれでは多いということで、彼女が残した分を引き受けている。

彼女は夕食を8分目未満にとどめ、食後すぐにチョコレートやお菓子を食べるのを至上の楽しみにしており(と言ってもこれも少量だが)、ご飯をたくさん食べるとお菓子を食べれなくなるから米を積極的には食べたがらないのだ。食後に煙草をやるのと同じ感覚で、きっと「シメ」なのだろう。お菓子を食べないとすこぶる機嫌が悪くなるので、食べるなとは言えない。

 

おかげで彼女は同居を始めてからみるみる痩せ、私はぶくぶく肥りはじめた。米の「蓄え」を舐めてはいけない。私はテレワークも多く、外出もしないし運動も拒絶しているので必然、カロリーは消費されずに肥(こや)しのごとく蓄積される。

でも食べることを止められないし、だから夜中にパンケーキを焼く業も重ねている。

見る人が見たら発狂するだろう。夜中のパンケーキなんて。「破門する」とまで言われてもおかしくない。

 

私の中で「体型を維持して健康的に生きる幸せ」と「食べたいものを食べれるうちに食べる幸せ」を秤にかけると後者の方に傾いて欲望が勝ってしまう。

体型を維持して食べたいものを我慢する生活というのは一体いつまで続くのか考えると、おそらく死ぬまで、ということになり、となると「食べたいものを食べ続けられる幸せ」を永劫に享受できない方程式が導かれ、であるならばまだそこまで体型を気にして躍起になる必要性のない若い今のうちに食べたいものを思いきり食べておいた方が幸福だと、人生というものを解釈した。

脂っこいものとか味の濃いものとかコレステロールがやばいものとかアルコールとか、ほっといてもそのうち節制せねばならない時期はやってくるだろうし、味覚が変わって食べたくなくなる時もいずれやってくるだろうから、それならば今のうちに思いきり食べておくべきだと、人生というものをそういう風に捉えた。

やるべきことは焦ってからで充分だ。こうやって生きてきたし、こうやって生きていく。

そんで、たぶんこうやって死ぬ。焦ったときにはもう遅い。

 

などと言い訳を考えてもパンケーキの前には無力で、今は至福を味わうときだ。

パンケーキを食べる生活は今だけなのかもしれないのだから。

バナナのある生活

ナナを買った。98円だった。

写真は一本食べてから撮った。バナナをバナナそれだけで食べたのは本当に久しぶりだった。

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ご覧のとおり、かなり値引きされていただけあって結構熟れてしまっていて、じっと観察していると斑点がひとつひとつ増えていくのがわかるくらい物凄いスピードで熟れていく。

特に私が一本もいでから、斑点は加速度的に増えていった。

 

家に帰ってドアを開けると、ふんわりとバナナの香りがする。

芳香。

バナナの森があったらきっと甘いにおいが漂って、蜜が滴ってそこは楽園の様相だろうな、と想像する。そんな香りが漂う。

幸福な香りだ。優しい。温かくはなくて、冷たくもなくて、常温の、そこにある濃密な香りがする。落ち着く種類のものではなく、ちょっと血を沸き立たせるような興奮的な香りだ。夢中の香りだ。

私は一切やったことがないのでわからないのだけど、阿片とか危険薬物の発する煙はバナナみたいな濃厚な甘い匂いがしそうだ。そうであってほしい。確かめようもないけど。

 

平日夜にココアのパンケーキを焼いて、バナナをトッピングして食べようと思ってる。

さいきんそういう罪深い遊びが楽しくてならない。深夜にパンケーキを焼いたり、メロンソーダを作ったり、袋麺を炊いたり、そういうことでしか人生の楽しみを見出せなくなってきた。

しかし単にパンケーキを焼くと言ってもタイミングが必要だし、バナナにも消費期限がある。

今こうして呑気に書いてる間にも、バナナはズブズブと腐っていく。時間を止めることができないようにどうしようもなく、破滅的な勢いで。私はあまりにも無力だと思う。

パンケーキを焼くタイミングというものが確かに存在する。それは少なくとも、今これを書いている月曜の夜ではなかった。

そのタイミングが火曜の夜であってほしい。

でなければバナナはいよいよ、というわけだ。

 

バナナに鼻を近づけてみる。頭の中がバナナ一色に染まる。

ふとよぎる。ゴリラ。

ゴリラってバナナを食べているイメージだけど、実際にバナナを食べているゴリラを見たことがない。紙を食べているヤギを見たことがないのと同じように。

ゴリラがバナナを食べる場合、あの太い指で丁寧に皮を剥くのだろうか。そして白いスジを除けるのだろうか。

私はゴリラじゃないからわからない。

ふとよぎる。ドリアン助川

ドリアン助川さんは作家の吉本ばななさんに憧れて自らをドリアンと名乗ったそうだ。そんな話を昔に聞いたのだが、私の思い違いの可能性もあるのでなんでもすぐに鵜呑みにしてはならない(警鐘)。

吉本ばななに関連してドリアン助川が導き出された速度は0.3秒くらいだった。ほぼ、バナナからリンクを踏まずにドリアンへ飛んだと言えるだろう。

その点でドリアン助川はほとんど吉本ばななに匹敵していた。

著作の『あん』も読みやすかった思い出。

 

こうしている間にもバナナはみるみる腐っていく。ドリアン助川に想いを馳せている間にも、取り返しのつかないことになっていく。

バナナたちが今週1週間も耐えきれず朽ちていくのをただそばに見守るのは悲しい。彼らは来週も月曜日があるということを永久に知り得ないのだ。

 

はやく食べなきゃ。

 

好きなことで生きる/空/鯛

きにくい世界だったので生きやすくしようとして、多様性、が殊更に叫ばれているが、それもまたそれでなんだか生きにくいよな、と思う。

「多様性」は誰かの生きにくさを認めてくれる便利な言葉だけど、細かくてさまざまな部分や物事を認めたり一括りにしてしまうので危険な言葉でもある。

「私は私の着たいものを着て生きていく」とか「やりたいことやって生きる」みたいな主張は従来の価値観や閉塞感を打破する言論の形のひとつで賛同する方は多く、日々「個人の意思を持ってやりたいことをやろう!」みたいな声が随所で上がるのを聞くと、たとえば私みたいにそんなことどうでよくて、なんとなく生きてて、なんかもういろいろと考えるのを放棄したくて、空気のように穏やかに、周りと合わせて波風立てずに生きることを幸福としている人間からすれば、「やりたいことをやろう」はイコール「自分のやりたいこと、自分のビジョンをはっきり持った人間になろう」に聞こえてきて暗に自分の体たらくを批判されているような気分になり、余計なお世話じゃボケ、おれはおれの好きなように生きたいからお前が余計なこと言うなカスそれは多様性と違うんかい、と、まるでトートロジーなのだけどそのような反感を抱いてしまい、心の矮小さに嫌になる。将来ヤバいジジイになる前に死にたい。

はっきり言って誰がどう生きようがどうだっていいので、みんな好きに生きていけたらいい。思想としてそれを押しつけるのはやめてくれ、と思うだけだ。

私はみんなに興味がない。みんなが私に興味がないように。でもみんなが幸せになればいいとは思ってる。どうでもいいなりに。

 

なんだろう。

人って価値がなきゃいけないのかな。価値を見出さなきゃいけないのかな。有用じゃなきゃいけないのかな。

疲れるよほんと。

空って、青だったり夕焼けだったり雨だったり夜だったり、雲が浮いてたり、雲が浮いてなかったり、自由じゃん。そこに定まった価値はなくて、ただ人間によって「晴れた空はいいなぁ」と思われてるだけだし、乾期には「雨降れ」と逆に晴れを忌まれて、雨が降り続けたらまた晴れを望まれるように価値は定まっていない。結果、空は空としてあるだけでそこに評価はなく、人間の猥雑でチャチな尺度では測りようもないのだ。

なんかそうありたいな。うまく言葉にできないけどさ。

「価値」がなきゃいけないという雰囲気がなんとなくある気がしていて、それがわざわざ多様性を叫ばなければいけない世界にも繋がっている。本来個人のあり方はどうあろうが認められて然るべきなのに。

 

病んでるみたいだけど病んでなくて(病むって言葉も軽薄で嫌いな言葉だ)、ただなんとなく最近考えてる自分の生きづらさというか、この息が詰まる感じはなんだろうって考えたことを書いた。

 

日曜の夜はビールを飲みながらカレーを作って、シュウマイを作って、鯛の刺身を切った。午前中には掃除機をかけ、便器を磨き、洗濯物を協力して干した。よく働いて満足だ。

恋人は美味しいと言ってシュウマイを食べてくれた。鯛も安くて腐りかけていただけに熟成しているようで旨味があった。鯛は好きだ。自分の身も鯛みたいな味だったらいいと思う。いつか恋人に食べてもらう日に美味しく食べてほしいから。

「あなたは物凄い灰汁が出て最後は茶渋みたいな搾りカスしか残らなそう」

たしかに。

 

なにもしたくない時間がだらりと肉みたいに垂れ下がっている。日曜の真夜中。

スーパー・ファミチキ・タイム

「ファミキチ?わたし食べたことないかも。食べたことないわ、あの部活帰りの高校生が食べるようなやつでしょ。ファミキチ」

ファミチキ、ね」

「ファミ、ファ、ファミキチ」

ファミチキ

「言いず、言いづらい。ファミキ……ファ、ミ、チ、キ」

「食べたことないんだ。じゃあお昼に食べようよ。余ったパンとさ。おれ、買ってくるよ」

「わーい、ファミキチ」

ファミチキ

「(咳払いをする)ファミキチ」

ファミチキ

「ファミリー・キチガイの略?」

「ファミリー・チキンの略だよ」

「ファミリー・チキンってなんだよ」

「間違えた。ファミリーマート・チキンの略だと思う」

ファミリーマート・フライド・チキン」

「FMFC」

「ファミキチ」

「フェミキチ?」

「ファミキチ」

「ハミキチ?」

「ファミケチ」

「ファミケチ?」

「ふぁ、ふぁ、み、ち、き。ファミキチ」

「なかなか言えないね」

「チキ、ってなによ」

「チキンだよ」

「キチじゃないの?」

キチガイじゃないもの。つーかあまりキチガイって言わせないで。気狂いのほうがまだマシだ。」

「さみきち」

「寒いに大吉と書いて、寒吉(かんきち)」

「ぶ、部長~!」

「りょ、両津~!」

こち亀のBLじゃないの。こち亀ってなによ」

こちら葛飾区亀有公園前派出所

「はしゅ、はしゅちゅ、……は、しゆ、つ、じよ。はしゅつじょ」

「そう」

「はしゅつじょが主人公なの?」

「おおむねその認識で合ってる」

合っていない。

 

彼女のお腹と私のお腹が、ぐぅ、と鳴った。日曜はいまや正午にならんとしていた。

休日が終わるのは早いものだ。なんでこんなに早いのだろう。

「ふぁみきち、買いに行ってよ」

ファミチキね。ハミチキ」

「はみがき?」

ファミチキ

「ふぁみき、ふぁ、ファミキ……!!!!ふぁ!ふぇみ!ふぁふぁふぁふぁふぁ!!!!!!ファーーーーーーーー」

ファミチキ

ファミチキ

「言えたじゃん」

「言えたから、買って来てよ」

 

店員に「ファミチキ2個」と伝えるとき、必要以上にゆっくり口を動かした。あまりにも恐る恐る言った。うまく伝わったみたいで、店員は素早い動きで件の揚げ鶏を紙袋に入れた。

件の揚げ鶏の紙袋には名前を書く欄がある。この名前欄が何のためにあったのか、前にテレビで見たのだが忘れてしまった。どうせ大した理由ではないだろう。件の揚げ鶏が迷子になってもわかるように名前を書いておくのだきっと。

 

「美味しいけど、一個で充分だね」

彼女はそう言って件の揚げ鶏をたいらげた。「美味しかったよ。ファミチキ

日曜が終わりへ向けて動き始める。

オッドタクシーを観た。みんなも観なよ

「いいよー」と噂だったアニメ、『ODD TAXI (オッドタクシー)』をアマプラで観た。

本当に良かった。

 

小さな事件、小さなきっかけ、小さな謎が関連性を持って繋がっていき、最後はひとつになって炸裂する。伏線の回収のシナリオも見事でありながら、アニメだからこそできる表現性にも挑んでいて、またセリフの言葉回しも秀逸なところがあり、すべて狙って出している面白さなのでたまげた。本当に有能な人たちが作ったのだ。

登場人物は皆動物だ。

BEASTARS』を読んですぐに観はじめたので、最初は草食獣と肉食獣が混在して和気あいあいしていることに違和感を覚え、これはすごくセンシティブなんじゃないかとハラハラしていたが、『オッドタクシー』はそこが主題ではなく、単に登場人物が皆動物の姿であるというだけだった。

「どうして動物なの?」という一番最初の疑問はアニメの世界にはまっていくうちに薄らいでいき、さして問題ではなくなる。むしろ動物のデフォルメがされたキャラクターに愛着を覚えて、人間よりいいとすら思えてくる。

話が進むうちに「動物である」利点が如実にあらわれてくる。

可愛げのある、表情豊かな動物たちが動くことで、話のシリアスさが薄まるのだ。

きっと人間でやっていたらシリアスに圧されてコミカルな部分は削がれていただろう。それだと有象無象の社会派サスペンスの二番煎じになる。

この表現方法はアニメや漫画、二次元の表現方法でしか違和感なく表せなかったと思う。

 

キャラクター造形だけでなく、背景や色遣い、音楽も良くて、ローファイなテンションと都会的な夜の情景を、誇張することなく描き出している。OPが大好きだった。

 

矢野、というヤマアラシのキャラクターが登場する。

彼は主人公の敵で、頭がキレて極悪非道な人物なのだけど喋り方に特徴があってそこがいちいち面白くて好きだった。

韻を踏んで喋るのだ。ラップみたいに。

スネ夫が自慢話するときに流れる曲があるように、矢野が喋るたびにビートが刻まれて彼専用のBGMが流れる。

めちゃくちゃウザくて、やってることは極悪人だし、なんだか人を舐めたような態度は底知れない特有の威圧感があるのだけど、やはりキャラがヤマアラシで可愛いのでシリアスさに呑まれた恐怖感は無い。

矢野の「ギャップ」という特徴は、このアニメ全体の特徴を反映している。

ポップでおちゃらけているのにシリアス。

そのギャップが全体的に気持ちが良かった。

『ちいかわ』とは違うけど、やっていることの思想は近いものがあるかもしれない。

 

youtu.be

 

OPで矢野が出てくる40秒~あたりからラップ調になるのも芸が細かいよなー。

 

ポップでシリアスでローファイで、ときどきとてもアツい。

いい温度感のアニメだった。見ていて気持ちが良いアニメってあるんだなと思った。

人は信じたいものを信じる

も100回言えば真実となる。

これはたしかナチスの高官が言い残した恐ろしい意味を孕んだ言葉だ。プロパガンダとか人種差別とか ねじ曲がった歴史の解釈も大声で堂々と言い続けていればいつしか民衆はそれを真実と思い込む、そういう意図のあった発言だった。

はたして私たち民衆はそれを嘘だと見抜くのは難しい。専門的な知識であればあるほど困難だろうし、ましてやそれを吹聴するのが一介の専門家だけではなく政府だったら、真実と思い込む人はより多くなるだろう。

という認識があるので、一部の人は政府の言うことをまったく信じずにトンデモ科学を信奉して「ワクチンを打つと皮膚がメタリックになる」みたいな別の嘘に染まる場合もあり、ちょっと考えればそんなの嘘だとわかるだろうと言いたくなるような嘘にまんまとハマっている。狂言かと疑いたくもなる。

どこもかしこも嘘まみれなので知識と思考力は大切だ。ただ問題を解くだけではなく、嘘を見抜ける思考力が。

そして結局のところ、人は信じたいものを信じ、それを真実と言っているだけなのかもしれない。だから真実と事実は異なる。

 

嘘をつき続ける、それが事実とは異なるとわかっていても、保身のために嘘を続ける、不断の意思で。

それは駄々をこねる子どもにも似た愚かな行いだ。

嘘をつき続けて最初に騙すのは嘘をついている自分自身だ。自分だけが事実とは異なるとわかっているにも関わらず、嘘を押し通すことで自分自身をまず洗脳して事実を見えなくする。

人は信じたいものを信じる。

周囲を騙すのも時間の問題だ。状況証拠が証言と一致しなければ、真実にはならなくても罪は軽くなるかもしれない。

事実を認めてしまったときが負けだ。だから嘘をつき続ける。祈りの言葉のように繰り返す。信じたいものを信じるために。

だんだん自分でもなにが本当だったのかわからなくもなるだろう。

人は信じたいものに対して盲目的になって、見えないものを見えると思い込み、見えているものを見えなくするのだから。

その段階からはたして嘘を認めて事実を明らかにするのは難しい。

 

池袋の母子轢き逃げ事件の実刑判決が下り、被告人が控訴するか注目が集まっている。

この事件の事実はわからないが、もしも嘘をついているのだとすれば、被告人もなにが真実なのかわからなくなっているのではないかと思った。

まったくふざけた解釈だけど、嘘をつくというのはそれだけ滑稽で非道な行いなのだ。

罪を認め贖罪をしてほしい。