蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

金曜日がおれの肩をおさえる

曜日、仕事終わり。

駅のスーパーで主に酒類を買うことを、毎週金曜日の週課にしている私は、この金曜日も早足でスーパーに滑り込み、主に酒類と、アテのものと、ゼリーなどを買うべくカゴへ欲しいものを放っていった。

平日は酒を飲まないことにしている。酒を飲むと微睡みの時間が長くなって、脳が働かなくなって、一切は、ただ一切は過ぎていくだけになるからだ。時間のない平日こそ、はっきりした脳の感度で時間を無駄にせず過ごすべきだとようやく気付いた。

などと偉そうなことを言ってるけど、実のところはようやく気付いてそうしているのではなく、転職して仕事のストレスがなくなったことで、毎晩前後不覚になるまで飲まなくても心の安定を保ているようになっただけである。

酒を飲むと肌も荒れるし、一度アルコールに破壊された脳細胞は二度と回復しないので、健康にも気を使い、ストレスもないし平日は飲まないようにしている。それだけだ。

というわけで、まぁ、週のご褒美として、金曜と休日は飲むことを許すのである。

ご褒美。

1週間の労いとしての酒。歓びとしてのスーパー。

そんなテンションだったわけだ、哀れなこの男は。とどのつまりは、素晴らしい金曜日なわけだ。

しかし、事件は起こった。

レジに並んでいたら、平然と、しかし不慮の事故のような様相で、下品なコートを着たおばさんが、割り込んできたのだ。

瞬間。

プッツーン。

キレたね。

クリリンフリーザに殺されたときに悟空が音もなく切れたのとまったく同じ感じで、キレた。

「おいおい、勘弁してくれよおばはん。こっちは、ほら、見ろよ、こうして並んでるだろうが。横入りすんな。お前の目はそのデカケツにでもついてんのか?」

そう言おうとした。なんなら、ちょっとした騒ぎにしてやれ、とまで思った。

しかし、私は偉かった。

私は、一度深呼吸をして、脳に充分な酸素を行き渡らせて、しばし冷静さを取り戻したのである。

ここで、おばはんを弾劾し、私は気持ちよく過ごせるのだろうか?

金曜日の夜の平然を、平安を、安寧を、おばはんへの説教で台無しにしていいのだろうか?

おばはんにだって金曜の夜は平等に訪れる。おばはん、もといこの女性だって疲れているだろうし、決してわざと割り込んだわけではあるまい。

そこで怒鳴り散らかして、かすかな報復感と虚な万能感に浸ることになんの意味があるだろう。なにが救われるだろう。

冷静になってみると、先ほどまでの、ちょっとした騒ぎにしてやれと嗜虐的な気配すら抱いていた自分が恥ずかしくなってきた。

今日は金曜日だ。誰だって、それは私だって、素敵な金曜日を過ごす権利があるじゃないか。

金曜日が私の肩を叩いてくれたおかげで、私は女性を許すことができた。

と同時に、隣のレジが空いて、私は結果として女性よりも先に会計を済ませられた。

やっぱり、徳を積むといいことがあるもんだ。

仏の存在をリアルに感じる。見られてる。仏に見守られてる。胸が温かい。酸素が美味しい。

 

だが、そのレジの対応が悪くて、なんか客を馬鹿にしているというか、正味ダルくてかなわんからとっととどっか行けや、みたいなバーコード読みをしたり商品をぞんざいに扱ったりなんの一言も発さずに金をバラバラと置かれたので、再び心の中の悟空がキレて大猿になるかと思った。

そのときの私も偉かった。

落ち着け、金曜日じゃないか……

 

おばはんも、レジの明らかに窃盗犯のようなナリをしたバイトの男も、実は金曜日によって生かされてるだけなのだとは、知るよしもない。

昼飯を食べない/鍵がない/寄り道をしない

事で午前中は外出していた。

会社に戻ってやることがあったため、慌ただしく帰社したあとは、業務の忙しさにかまけて昼ごはんを食べなかった。

気づいたときにはもう15時半だったし、なんかお腹も空いていなかったので、たまには食べない日があってもいいかと、放置。こんな日があってもいいじゃないかと心の中で高笑いした。

節約ができた、はっはっは、と。

17時ごろ、遠浅の浜辺のようにな漠とした空腹に、私は襲われていた。

でも今からコンビニ行くなんて嫌だし、そもそも今日は昼を食わんと決めた自分に敗北した気がして、絶対に食事は摂りたくなかった。

だが、このままだと体内の血糖値が下がりすぎて手足が震えてきそうだったので、机をあさったら出てきた のど飴を舐めた。

なんで のど飴なの。

 

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会社には、カードキーなるものがある。

これは朝一番に来た人が会社のロックを外すために使うもので、要するにほとんど使用機会のないものなのだ。私は一番に出社したこともなければ最後までいたこともないので、このカードカーの存在をすっかり忘失していたのだが、今日、ふとしたときにその存在を思い出し、そして背中に冷たい氷が落ちていく感覚を覚えた。

カードキーをなくした可能性がある。

それとなく、ただし慌てず、ほんとうに何気ない感じでデスクのキャビネットの中を探してみるが、やはり、ない。

慌てない。

ここで慌てると、周囲にどうした?と訊かれて厄介なことになる。

大丈夫。落ち着け。

一応、私は転職したばかりで試用期間の身。ここで会社の鍵をなくしたなんてバレたら、まぁ十中八九契約破棄でしょうね。だから、

慌てるな。

だいたい、まだ本格的には探してない。

本格的に探せばきっとある。こういうのは、本格かそうでないかでだいぶ結果も変わってくるもんだ。本格であればあるほど切迫してくるから、常に心に余裕を持て。コーヒーでも飲もう。

ほら、こう考えている間にも、どこを探せば出てくるか候補がスラスラと出てくる。大丈夫だ。紛失の可能性についてはその倍くらい出てきてるけど。

とにかく私は、動揺を隠し、一旦帰ることにした。

帰宅して一度態勢を立て直した方がいいと判断したのである。

 

///

 

帰りに、帰路とは反対方面の有楽町に寄り道しようと思っていたのだが、前述のこともあったし、とにかく私は腹ペコで感情的にもほとんど抑うつ状態であったので、寄り道は諦めた。腹ペコで のど飴を舐めると抑うつになるらしいので気をつけたまえ。

もう、今日くらいしか有楽町でその用事を済ませることはかなわないのだが、なんだかどうでもよくなっていた。

それに、有楽町から電車は信じられないくらい混雑するのだ。激しい空腹を抱えながら満員電車に耐えられるとは思えなかった。

 

ああ、もうどうしよう。

カードキーまじでやばい。

 

と、駅のホームでカバンの中を「本格的に」探しはじめてみたら、カバンの小さいポケットに、大切な思い出のようにそっとそこに、カードキーが挟まっていた。

安心したら、よりいっそう、腹が減った。

 

読書メーターをはじめた

んだ本の感想を管理するために、読書メーターというWEBサービス(アプリ)に登録した。

去年から本を読んだら感想を一言ずつエクセルにまとめていたのだけど、パソコンにいちいち打ち込むのが面倒になったので、手軽にでき、かつ他人の感想まで見られる読書メーターがよさそうに見えたのだ。

誰かが見るかもしれない、と思うと感想の文章をちゃんと書こうと思うし、感想(アウトプット)を主体に本を読むことにもなって俄然集中できる。もっとも、夢中になれた一冊はそんなこと考えもせずに読めるものだが。

自己啓発本やビジネス書の類は感想をまとめるために読もうとすると、より読書が捗る。いかんせん、読んだきりになって実践を伴わないのがビジネス書あるあるだが、少なくとも一言でいいから感想を書こうと思えば、読んでいるときの姿勢から正されるもんだ。アウトプットは大事で、アウトプットを前提としているかどうかでインプット時の脳への定着率が大幅に変わる。(と、読んだ本に書いてあった)

 

感想が誰かに読まれるので、適度な緊張感がある。忌憚なき正直すぎる感想、要するに「反吐が出るほどつまらなかった」といった類を投稿するのは気が引ける。あくまで自分には合わなかった、みたいなことを書く配慮が必要だ。

また、全然知らない人から、匿名をいいことに感想を批判されることもある。

なんで感想を批判されにゃならんのか理解不能だが、とにかく暇人はいる。いちいち腹を立ててもしょうがないし、そう多く暇人がいるわけじゃない(たくさんいたら国はとっくに潰れてるだろう)ので、気にするもんじゃないし、気にしてない。

ただでさえ読書人口が減ってるんだから、そんな無味蒙昧な活動は控えて、個人の感想を尊重してみんなで読書を楽しめる風潮を作ろうじゃないか、と提案したい。

コアなファンが素人や新人に対して高圧的で排他的であるほどコンテンツは廃れるように思う。

読書家は高慢な人が目立つので本は順当に廃れるだろうが、せめてその速度を遅らせたいじゃないか。

 

読書メーター、便利なんだか不便なんだかわからない。

管理しやすい気もするし、感想の管理や冊数やジャンル・作者別の管理くらいならエクセルでできることでもある。

UIが使いずらいしサイトのアクセサリビリティも低いと言わざるを得ないが、無料なのでそこは仕方がない。

せめて何月に何冊読んだか、特定の期間にどれだけ読んだかをわかるようにしてほしいのだが、そういった機能はないのだろうか?(まだ知らないだけかも)

 

ゆるっと感想を投稿しているだけなので誰とも繋がる気はなくて、いまはそのくらいの距離感のSNSとして活用している。

芋の不作か、みんなはどう思う。

つまいもが不作の可能性がある。

いや、知らないのだけど、今年のさつまいもはあまり美味しくない気がしている。それに値段も例年より高い気がしている。

毎年恒例となったさつまいもの炊き込みご飯を今期2回作ったのだが、2回とも、なんだか美味しくできていない。

さつまいもがパサパサとして米になじまず、味も湿った砂みたいで、はっきり言って美味しくないのだ。

私の調理が下手くそなのでは?

否。

去年は同じレシピで美味しく作れたのである。

去年のさつまいもご飯は、もっと甘味があって、香りからして秋の実りを感じさせる芳醇さがあったのに、今年のはなんだか、倉庫から発掘してきたボロボロのブーツを思わせるような悲壮感が全体的に漂っている。

芋全般が好物の妻にして、今回のさつまいもご飯の出来には閉口していた。

 

去年は特別美味しかったという説もある。

蜜が滴っていたし、芋自体の色味も溌剌として、そのまま絵の具にできそうだった。

もしかしたら去年の芋に畑の養分を吸われてしまったのかもしれない。

そもそも、ほんとうに今年のさつまいもが不作なのかどうかわからないで断定的に書いているが、私たちがスーパーで選んだ芋がダメなだけだった可能性は否定できない。

 

それにしても、日曜日に作り置きしておいて、平日それを楽しみに帰宅して、食べてみたら不味いなんて、なんという仕打ちか。

見た目が美味しそうであるだけに、裏切りに等しい出来事だ。仕事終わりはこの世のすべてが優しくあってほしい。

作り置きが失敗している描写を小説の中に登場させたら、犬がひどい目にあう描写と同じくらい、読者から批判されるに違いない。それくらい残酷な出来事と言って差し支えない気もするし、しない気もする。

私にはなにもわからない。

 

さつまいもの季節は始まったばかり。

今後の動向に注視していきたい。

各位、情報求ム。

ココイチの辛さには店ごとに「揺れ」がある気がする

コイチ(CoCo壱番屋)のカレーの辛さには店ごとに「揺れ」がある気がする。

プレーンの辛さはたぶん同じなんだけど、2辛〜10辛には店ごとに辛さの塩梅がビミョーに異なっている気がしてならない。

たとえば新宿のココイチの2辛は渋谷のココイチの4辛に匹敵しているということだ。あくまで例だが。

 

家の近所のココイチでは5辛を頼んでちょうどいい。

ちょうどいい、というのは、辛さの苦痛でときどき顔に皺を寄せながらも、辛さの向こうにある美味しさも楽しめる、辛さのエンタメと美味しさのバランスがちょうどいい、という意味だ。このちょうどよさは人によって違うだろうが、家の近所のココイチでは5辛が私にとって適当である。

だが、会社の近くのココイチでは3辛を注文している。

会社のココイチにおける5辛はちょっと「やりすぎている」のだ。

もっと言うと「やってる」。

5辛にしては辛すぎる。

3辛で家近くのココイチの5辛相当になっている。

 

だが、チェーン店なので、店舗によって辛さに揺らぎがあるとは一体、考えにくい。

のれん分けした店ならまだしも、チェーン店の調理にはきちんとマニュアルがあり、規定がある。ココイチほどの素晴らしい飲食店ならば、年に数回の調理研修があってもなんらおかしいことではなく、社員からバイトへの教育が行き届いていることは店の様子を見ていても明らかである。

ではなぜ、辛さに揺らぎがあるのだろうか?

いや、正確に言おう。

なぜ、辛さに揺らぎがあるように「感じる」のだろう?

 

その答えは、凡夫の私には到底辿り着けない。

気圧のせいかもしれないし、血圧のせいかもしれない。前の日に食べたしめ鯖のせいかもしれないし、隣に座っている男の電子機器から発せられた電磁波のせいかもしれない。5G電波の可能性もある。

あるいは私の勘違いか、店員のミスなのかもしれない。

 

答えはわからなくとも、真相は判明せずとも、確たる事実はある。

私はココイチが好きであるということと、ココイチにこれからも通うということと、何辛だろうが美味しい、ということである。

ちなみにサラダも美味しすぎる。

株主になろうかな。好き。

人を支配するには言葉から

Twitter社をイーロン・マスク氏が買収したことにより、社員の半数近くが解雇されたらしい。

同時に新たなサービスの提供や、サービスの停止が日毎のペースで行われ、社員もさることながらユーザーも振り回されているが、Twitter自体の試行錯誤を私はけっこうおもしろく見れている。

とにかくいろいろ試してみて、もっと面白いサービスになったらそれは楽しいじゃないか。

 

ところで、Twitterの「ニュース欄」に出ていたトピックが、TwitterJPの社員による操作によるものだった、という話題も盛り上がっている。

人の手でやっていたんだ、という意外性と、じゃあそれって、担当者の好みで世論操作も可能なのだと、脅威も感じた。

なんか全アカウントのツイート内容から魔法みたいなアルゴリズムでトピックを自動で反映しているのかと思っていたけど、そうでもなかったらしい。(一方でトレンド欄は自動反映のようだ)

でも人間は魔法を使えないので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。問題だったのは、それがさも無作為なように見えてしまっていたことだろう。

ニュース欄のトピックには、多くの場合は議論という名の石の投げ合いみたいなトピックが流れてきて、社会問題について「人々の関心を集める」と言えば聞こえはよいけど、結果としては憎悪を煽るだけのものが顕著だった。

もしも自分がトピックを操作する人間だったら、きっと自分は社会問題を人々に知らしめて世間の意識を変える大きな仕事をしているぞ、とでも思っていただろうが、実際にはそんな正義感に溢れた偉大な成果にはなっていなかったわけだ。

そして、一部のニュースサイトは、トピック編集をするTwitterP広報部の担当者の「好みの傾向」を把握して自分たちがうまくバズれるようにしていたらしい。頭が良いし、それは正しい選択だったと言える。利用できるものは利用するべきだ。

大幅解雇されて広報担当もいなくなった結果、憎悪を煽る「社会問題に切り込んだ」ニュースや話題は、最近見かけなくなってきた。

それで全部が良かったとは言えないけれど、少なくとも私がイライラする回数は減った。

 

私たちの意識や考え方は言葉というシステムによって構築されている。

その言葉は広告やニュース、周囲の人や書籍など外部から流れ込んでくる。

発する言葉は、いつの間にか外部から取り入れた情報の影響を受けて自分の中で再構築されたものであり、いまの時代の価値観やこれまでの歴史の思想が反映されていて、私だけじゃなく、人として生きるすべての人が、そういった言葉の世界を生きているのだ。

私だけが考えていると思っていたことも価値観も、たった一人の誰かの「好み」によって表示される広告や記事で形作られているのかもしれない。その人による間接的な「思考の規定」がなされている。

それを怖いと思うか、残念に思うか、悔しいと思うか、嬉しいと思うかは人それぞれだ。

私はこう思う。

人を支配するなら、言葉からだ。

税務官的なものになりたすぎる

動車に新たな税が加えられて、走行距離に応じて課税するなんてすごいことが起こるのでは、という話を聞いた。

東京23区は鉄道網がえげつなく発達していて車なんてほとんど必要ないけど、それ以外の場所では車は必須だろうから、考えたやつは悪魔だ。しかもこれ、田舎に行けば行くほど車乗りは不利になる。

排気量によって自動車税の課税金額は変わるので、近年のハイブリッド車による排気量の減少が税収の減少につながってしまい(ザマミロ)、走行距離による課税を検討しているらしい。

若者のクルマ離れなんて言われてるけど、こんな状況でクルマに乗りたいと思うか、老人共は孫に聞いてみたらいい。

私はクルマを持つ予定がないからどうだっていいけど、クルマ好きにはキツイ話だ。

 

ところで私はこの話を聞いたとき、結構、感心してしまった。

考えたな〜、この手があったか!と顎に触れながら唸ってしまったほどだ。一本取られた!とすら思った。

その後で、クルマ乗りには酷な話だなぁと思い至った。

国は、国民のどこから、どれだけ搾り取れるか、たくさん考えているに違いない。日頃からいろいろなものをチェックし、先を伺っているに違いない。

あっ!と思ったらとりあえずスマホのメモに残しておき、後日調査のうえで資料にまとめたりしているに違いない。

この、どっからどれだけ搾り取れるかを考える仕事、かなり楽しそうだ。

私も考えたい。

そんで採用されたら、けっこう嬉しいだろうな。

 

肥満税なんてどうだろうか。

BMI値の大きさによって累進課税にする。太っていれば太っているほど課税されるから、人々はダイエットするだろうし、税収は増えて国民は健康的になるので一石二鳥ではないか。

アイス税。

アイスにもタバコや酒と同じように税をかける。

アイスは娯楽の食べ物だ。栄養なんてないし、これも食べてばかりいると太るから健康にいいわけがない。嗜好品に違いないので税金をかけやすい。税金をかけることに罪悪感が少ない方がいい。

誕生税。

産んだら税を取る。ある特定の場合に限り、税金をかけてもいい。閏年生まれには課税しちゃう!みたいな。死亡消費税という、死んだら遺族が払う税金があるので、似たようなテンションでやってもいいんじゃないか。

こうやって考えていくのは結構楽しくて、自分のアイデアが国のために直接関わっていると思うとかなりモチベーションも高くなる。

自分が対象になって税を搾り取られると思うと許せない気持ちになるが、搾取側になればめっぽういい気分だ。

税務官になろう。国税庁に入ろう。

 

当然、税務官になったら給与から税金が引かれないと思っているのだが、当たってるだろうか?

ここまで私はその前提で書いてきたのだが、もしも税務官たちも税金をかけられているのだとしたら、意味がなさすぎる。

メビウスの輪じゃん。税金を取る仕事してて、自分からも税金を取られてる???そんなことある??