蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

『街とその不確かな壁』ってタイトル素直に やれ射

上春樹関連のニュースで興奮することを「やれ射」と呼んでるのは私だけだろうな。

やれ射。

つまり、「やれやれ、僕は射精した」の略。

村上春樹の作品の中で最も有名なセリフのひとつ。でも、実際にはどこにも使われていない架空のセリフ。

興奮してるのに「やれやれ」と言ってるさまが気に入ってる。

 

4月に発売される村上春樹の新作長編のタイトルが発表された。

『街とその不確かな壁』

なんだこの格好いいタイトルは。

こんなんもう、見ただけで やれ射。

なんとなくタイトルから漂うのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の雰囲気だ。とくに「世界の終り」に出てくるあの街を想起せずにはいられなかった。

果たしてどんな物語になるのだろう?

 

騎士団長殺し』では内容の循環が起こり、過去作品のパロディとも読めるようなニュアンスが随所にあった。

これまでの清算のようなそのパロディと循環を突き破ったものが、主人公に与えられた恩寵と東日本大震災だったのではないか、と密かに考察したのだが、話すと長くなるので割愛する。

そんな個人的な考察を踏まえて『壁とその不確かな街』の展開を予想してみよう。

騎士団長殺し』で主人公は循環から抜け出したので、今作ではこれまでとは前提からして違う要素が出てくるのではないか。

たとえば、これまで主人公は35歳か36歳の男性だったが、今作では70歳の老人になっているかもしれない。これまでの35歳は年齢の割に老け込んだ印象だったので、70歳になっちゃうことはあり得ると思う。年相応だろう。

『多崎つくる』で35歳はやめたと思ったら一歳老いて36歳になっただけだったし、それは『騎士団長』にも引き継がれていた。

だが、いい加減年相応な70歳になってもいいのではないか。

あと考えられるのは、主人公はなにかを喪失することで話が動き出すパターンが多かったが、今作では何かを得るところから始まるかもしれない、ということだ。

あるいは、なにかを「得られない」か。

でもこれはどうだろう。村上春樹はずっと喪失について書いてきたから、これに関してはブレない気がする。

『街とその不確かな壁』から感じる閉塞感はコロナ禍の世界の象徴だ、なんて簡単に言えるけど、そこまで考えて書いているとも思えない。「書いてたらこうなった」くらいの感じだろう、どうせ。

 

ところで『街とその不確かな壁』を調べてみると、どうやら『ハードボイルド』の習作として書かれた短編小説のタイトルがそれらしいことがわかった。

やっぱり関係あったのか。

しかも未発表らしい。

うーん、やれ射。

じゃあやはり今作は『ハードボイルド』となにかしらの関係がある作品なのだろうか?

でも、短編「街とその不確かな壁」から発した物語は『ハードボイルド』で完結しているので、長編『街とその不確かな壁』が『ハードボイルド』と直接的な繋がりのある作品にはならないのではないか、と予想する。

「あ〜昔こんな短編書いたな。書き直してみっか」くらいの軽いノリで書き始めて、そしたら全然違う内容になって、今作ができた、って感じがしないでもない。

 

内容の予想はともかく、ただただ純粋に楽しみでならない。

今作では何回スパゲッティを茹でるのだろう、何回射精をするのだろう、何回静かに絶望するのだろう、どこに住むのだろう、どこに行くのだろう、なにかしらの「穴」には入るだろうか?

また新しい村上春樹の文章世界に浸れるなんて、ファンとして嬉しいこと限りない。

やれやれ、射精せずにはいられない。

 

好みの画像に出会いたい

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「これ絶対に好きでしょ」と妻に言われたのが、上の写真である。

ひと目で、ああ、これはなんて素晴らしいのだろうと、思った。

同時に、妻が私の好みを理解していることが嬉しくもあり、なぜかちょっと小馬鹿にしてるのが腹立たしくもあった。

でもともかく、私はこのカモメを、気に入った。

「あなたはこういう、なんか意思持ってる物とか動物のイラストが好きなんだよね。言葉喋らされてるやつ。なんていうのか知らないけど」

妻の言うとおりだ。

私は、なんか物とか動物が、短くてどうでもいいことを言ってる画像が好きなのである。

このカモメのシンプルな色合いと胡乱な目つき。

「これがしまなみ海道か」

なんでコイツこんな冷めてんだ。

一見普通に見えるが、よく観察すると様子がおかしいのである。

私はこういう画像が好きだ。

 

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これなんて味わい深くて、ずっと気に入ってLINEのトーク画面に設定している。

これのモノマネを私はよくやる。

「タラの尾っぽだよ!」と平坦に言い、妻に詰め寄るのだ。

すごくどうでもいいことをなんか、自信満々に言ってるところが、可笑しい。

「タラの尾っぽだよ!」

だからなんだというのだろう。

これを作った人の意図も読めない。タラの顔じゃなくて尾っぽにしたばかりに、「タラの尾っぽだよ!」なんて説明が必要になって、インク代のムダなコストをかけている。

 

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ちょっとジャンルは違うけど、これも好き。

すごい。

キャラデザが犬の兄弟くらい似通っていて、全員が同じ方向を見ていて、一応それぞれのアイコンを持ってはいるけどコピペ感が拭えず、なんて手抜きなのだろうと思うけど、「おじいさん、おばあさん、おとうさん、ピーポくん、おかあさん、いもうと、おとうとだよ」と言い切る潔さ。

これが警視庁である。

小見出しが「ファミリーのしょうかい」で、本文見出しが「家族を紹介するよ」になっているのも心にくい。

きっと、同じ文章が上下に並ぶと見た目に悪いので、英語を日本語に、平仮名を漢字にしたのだろう。

制作者の配慮が垣間見える。

 

なかなかこういう好きなものには出会えない。

うまく言語化できないけど、なんか好きなんだよな。

「平和的である」「どうでもいい」「狂気が滲んでる」

この3つを備えた私好みの画像をお持ちの方がいたら、オンラインストレージで送ってください。

 

ローランサン展に行く

Bunkamuraでやっているマリー・ローランサン展に行ってきた。

日曜の朝イチに行ったので、空いていてよかった。

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日曜の朝の渋谷は、あの大きな交差点すらも人はまばらで、道玄坂のあたりは50メートル先まで道を見渡せて、とても快適だった。歩きやすいことこの上ない。ネズミの死骸もまだ腐っておらず、新鮮だ。吐瀉物も乾いていない。

 

マリー・ローランサン展に行きたいと言ったのは妻だった。

「あなたと付き合いはじめてから、いろいろな美術館とか展覧会に行くようになったじゃない?ローランサンはわたしが初めて、自分でその良さを発見できた画家なの。だから絶対に行きたいの」

それはなんだか、私にとっても記念すべきことのように思えて、嬉しかった。

いつもは私が行こうと誘う展覧会に、妻が誘ってくれた。

 

ローランサンの絵はなんだか不思議だ。

写実的ではないし、個人を描きながらも明確にその個人かと言われると、そうでもない気がする。

個人のさらに向こう側に透けて見える「女性」とか「人間」とかそういう「存在」そのもののようだ。

淡いピンク、グレー、ブルー。輪郭もぼやけていて霞みたいで、描かれたものは人の形をした「概念」そのもののようである。

描かれた人々はつぶらな瞳でありながら、ぼんやりとどこか違う世界を見つめていて陰鬱そうですらあるのだが、それを見ている私は、たとえば雨に濡れる庭先を窓の中から眺めているときのような安らぎを覚える。

夢の中のような、という言葉の表現を展示プレートの中で見た。たしかにそうかもしれない。

でも夢でありながら、はっきりと画面の中に温度があって、囁き合うような笑い声が聞こえてくる。

意外と不気味な絵なのだが、なぜだか心が和らぐ。

 

第一次世界大戦が終わった直後のあたりからはグレーを基調とした暗い雰囲気の絵が続くが、世間では好景気に湧いて技術革新が生活を豊かにしており、ローランサン本人もパリの社交界で人気者となって羽振りが良かったらしい。

1930年代になって世界恐慌と次なる大戦の陰が広がりはじめると世間のモードは「新しいもの」から「復古調」へ、つまり過去へ還ろうという精神が見え隠れするようになるが、ローランサンの絵は黄色や鮮やかなピンクを用いた明るい画面へと転じる。

なんだか絵と時代背景がまったく逆のような気がして面白い。どうしてローランサンの絵柄がこうも変わったのか、彼女の人生と激動の時代背景に想いを馳せる。

展示では、ローランサンと交流のあった(仲が良かったわけではない)シャネルのポートレイトやコラボした衣服も展示されていて、見応えがあった。

シャネルの服というか、スタイルってめちゃくちゃ格好いい。

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シャネルとはモードではなく、スタイルだ。

展示室の壁にそう書いてあって深かった。

 

妻も満足そうにしていて、今度服の展示があったらぜひ行こうと誓った。

展示を見終わってもまだ11時くらいだったので、日曜日を長く過ごせたのも良かった。

美術館には朝イチで行くのがオススメだ。

蹄を削る動画

や牛の蹄(ひづめ)を削る動画ばかり見ている。

そんな動画のどこが面白いのか、説明は難しいし、面白いかと言われると、面白いわけではない気がするのだが、なんだか見てしまう。

よく研がれたナイフで荒れ果てた蹄をヌッと切る。硬い蹄というよりもバターを切っているみたいだ。それくらいよく切れる。

馬も牛も、なぜかみんな大人しい。

馬の脚を曲げさせて、職人が股の間に挟んで作業をする。こんな姿勢で暴れたらひとたまりもないだろう。

でも動物たちは、それが自分にとって良いことだと理解しているみたいだ。眠っているみたいに大人しくして、蹄がケアされるのを4本脚分待っている。

削る前の蹄には泥や糞やゴミが溜まりまくっていて、まずはそれを鑿(のみ)のようなもので掘り出して綺麗にする。ここが気持ちいい。

次に閻魔大王がお仕置き用に持っていそうなハサミで蹄を大雑把に切る。ばきり、ばきり、と木を割るような音がする。牛の蹄の場合は、ナタを振り下ろして爪を割る。私はここの工程がなんだかいちばん恐ろしい。動いた拍子に変な力が加わって、爪に亀裂が入って肉にまで達したら、と想像すると顔をしかめずにはいられないのだ。

さらに、例のよく切れるナイフで、蹄の底を削ぎ、ヤスリで綺麗にならしていく。ここの工程がたぶん結構大事なのだろうと推察される。少しでも断面が傾いていたら牛や馬の数百キロの体重を支えるにあたって重心がズレてしまい、足腰に負担がかかって病気などになるのではなかろうか。競走馬であったら、蹄職人の腕次第でレースの結果も変わってくるのだろう。

最後に、馬の場合は蹄鉄(ていてつ)をはめる。熱した蹄鉄を蹄に押しつけ、釘を打ち込んで固定する。

やってることが無茶苦茶である。およそ動物に施してよい行為とは思えない。熱した鉄を押しつけ、爪先に釘を打ち込む。ありえない。

でも、馬は身じろぎもせず終わるのを待っている。

不思議な話だ。

 

蹄は削らないとえんえんと伸びていく。人間の爪と同じように。

ひどいやつは反りかえるように生えてしまって、歩きにくそうにしている個体もいる。動物は爪切りを使って自分で爪を切れないから、ケアが行き届いていないとそういうことになってしまうのだ。

野生のやつらはどうしてるのだろう。走り回ってるから伸びすぎるということもないのだろうか。

ふと気になる。

野生の馬って……野生の馬……?想像できないなそう言えば。シマウマしかいない?野生のロバすら存在しない……?

牛は……いるな。野生。サバンナでライオンに喰われてた。「どうぶつ奇想天外」で見た。水牛とか、バッファローとか。

馬はなぜいないんだろう……。

いろいろなことが気になり始めるが、ぼーっと気になってきたあたりで動画は終わるので、そこで興味も失せて、調べたためしは一度もない。

 

こうやって、時間を蹄に削られている。

はやく帰る日

日明けの金曜日、私は朝、遅刻しかけていた。

地元の電車が遅延し、さらに乗り換え先の電車がなんか定刻よりも早く駅を出発してしまったので、乗り換えに失敗したのだ。そんなことあるんだ。

駅から会社までは徒歩3分。電車が駅に着くのは始業の3分前である。

会社の鍵と定期をカバンから出してポケットに突っ込み、ドアが開くのが早いか私は一目散に駆け出した。

疾駆。

駅から会社までの道のりで、時たまネズミがブヨブヨのお腹を振って、居酒屋の脇道を走っているのを見かける。今日はいなかったけど、その光景を思い出した。

会社にはギリギリ間に合ったが、来てみると3人しかいなくて、他の人は遅刻していたり、休んだりしていた。

今日はつまり、そういう日なのだ。

 

やるべきことはたくさんあるし、本来ならそれらをすべて片付けたほうがいいのだが、最近わかったことに、私は夜になると急激にパフォーマンスが落ちるという特性がある、というのがあるので、久しぶりに残業をせずに仕事を終えた。

でも早く帰った理由はそれだけじゃない。

近頃は残業をし過ぎていて妻とほとんど一緒にご飯を食べれていなかったのだ。

それについて妻が苦言を呈すことが増え、クールを気取っているもののヘソを曲げることが多くなってしまったのだ。まるで猫みたいだ。

私としても一緒にご飯を食べることは家族にとってなによりも大事だと思っているので、今日ばかりは家庭を優先することにした。

 

だいたい、なんか今日はやる気がなかった。

木曜の祝日って、あまり意味がないというか。

月曜日が2回ある気分だし、金曜日が2回ある気分でもある。

それは2回損をしていて、2回得をしている、0である。

そんなら気分だから仕事も、人いないし、すごい気楽にやって、テキトーにやって、スッと帰ったのである。

そういう日。早く帰る日。

義父義母の衣装合わせ

婚式に向けて、今日は義父と義母の衣装合わせをした。

ギフ・ギボは会うなり「東京は寒いね」と背中を丸めた。風の吹き荒ぶ駅改札で20分ほど待たせてしまったので(妻が集合時間を間違えた)、寒いと感じるのは当然だろう。今日はこれでも小春日和である。

お昼時の少し前に駅近くのお蕎麦屋さんに入った。

祝日のためというのもあったのか、あたりの飲食店は全然開いていなくて苦肉の策で選んだお蕎麦屋さんだったのだが、その割には美味しかったのでよかった。でも、その割には、というレベルなので、もっと美味しいお蕎麦屋さんはあるのだろうという思いは抜けきらなかった。でもまぁ、普通に美味しかった。

ギボは衣装合わせに緊張してあまりよく眠れなかった、と溢した。そういうところは妻にそっくりである。

妻と緊張する場面は違うものの、なにかあると心配しすぎたり、余計なことを考えてぐるぐるしてしまうのはやはり血のつながった親子なのだなと見てとれて、なんだか和む。本人が緊張している手前、和むなんて言ってられないが微笑ましいことだ。

一方でギフは緊張していなかったが、体型のことを気にしていた。おれに合うモーニングはあるのか、いやでも世の中にはいろんな体型の人がいるからきっと大丈夫だろう、来月人間ドックがあるけど今回はもう諦めたんだ、うんぬん。

なんだか、こういうところも妻そっくりである。

妻もひとつを気にすると居ても立っても居られないいられなくなるのだ。

 

衣装合わせ自体はそそくさと速やかに終わった。お二人とも恥ずかしがって、もうこれでいい、これにしよう、という感じで、パッと合わせてすぐに決まった。でも二人とも似合うものを選べたので結果としてはスムースでよかった。

帰りに喫茶店に寄ってケーキを食べた。

「今日のワンピース、ちょっとキツかったからダイエットしないと」とギボは言いながらも、罪深く美味なモンブランを頬張っては満足そうであった。

なんだかんだ言いながらも、お二人とも楽しみにしてくれている。

結婚式まであと3ヶ月。いろいろと決まってきて、いよいよなんだと実感が湧いてきた。

誤字は遅れてやってくる

ールや文書など、どれだけ誤字に気をつけていても、送ったあとに見つかるのはなぜなのだろう。ブログにしたってそう。投稿したあとに気づく。

今日もメールを送った直後にひどい誤字をしているのを見つけて、ひとり恥ずかしい思いをした。

誤字った場合、メールを五月雨にしてまで「これ、誤字です」と送るのもなんか変だ。内容の要が伝わっていれば大丈夫な気もするし、誤字報告のメールを送った結果、相手のメールボックスで本来のメールが埋もれてしまっては困る。

判断に困ったら「自分的にはやった方がいいと思うんだよな」という自分の中の真実に従うようにしている。

今回は「でもなんか、面白い誤字だからいっか。冒頭の飾り付けみたいな挨拶だし」と思ったので、放置して会社をあとにした。

ccに会社のアドレスを入れているから、金曜日に出社したら皆から笑われるかもしれない。

 

誤字は遅れてやってくる。

卒論を書いたときも、いくら見直しても誤字が見つかり辟易した。

いま書籍を作る仕事をしているのだけど、どれだけ目を皿にして探しても、誤字や修正箇所は見つかる。やってもやっても終わらない。

先輩なんて、本をなんとか刊行してから誤字を見つけてしまったくらいだ。

文字はたぶん生きていて、私たちの目を掻い潜って遊んでいる。そうとしか思えない。

文字たちは書かれたその瞬間から生命を帯び、文字そのものの魂を抱えて、紙の中とさらにその上位の世界に存在しようとするのだ。だから消されることを常に恐れている。そうして生き残った誤字は、私たちを嘲笑っているのだろう。そうとしか、思えない。

 

この、誤字が後から見つかる現象にまだ名前がついていないのなら、「ある作家現象」と名付けよう。

“完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。”

村上春樹の小説『風の歌を聴け』の冒頭で、「ある作家」が放った言葉に由来させて。

この言葉があれば誤字の魔力にも心を惑わされないだろう。