蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

寝に帰る

日残業が続いている。

家に帰ったらご飯を急いで食べて、ウイスキーをダブルで一杯だけ飲み、歯を磨いて寝る。これだけだ。

シャワーには朝入るようにして、できるだけ睡眠時間を長く確保するように心がけている。

妻とは少しだけ喋る。

「わたしなんかより、仕事が大事なんでしょう」

「君が大事だよ、でもね…」

このようなやり取りを毎日し、妻を抱きしめて、なるべく笑顔でおやすみを言う。

仕事も大事だし、妻も大事だ。でもこれって、両足も両手もどちらも失うことができないように、比較ができない大切さの上に成り立っているので、答えようがない。

仕事もやらなきゃいけないし、家族も大事にしなきゃならない。義務ではなく必然だ。

やれやれ。

「そのうち、そんなことも言わなくなるくらい、夫の存在が鬱陶しくなるから、今が華だよ」

先輩にそう言われた。

「わたしも昔は旦那が帰ってこないと寂しかったけど、結婚して5年も経つと今なんともないからね。むしろ、帰ってきちゃったの?って感じ」

やれやれ。

 

寝てしまうとすぐに明日になる。

明日になったらまたやることが山のようにある。

前職だったらこういう状況には嘆き悲しみ、人生なんて、とさめざめ泣いていただろうが、転職した今はなんてことないように思える。

これが普通、というか、こういう日もあるよな、と。

こういう日がどれだけ続くのかわからないけど、自分は大丈夫だと平気の平左でいられるのだ。

転職をして良かった。

いろいろと結果を出すのはこれからのことだけど、自分には今の仕事が楽しいし、結構向いてると自負している。

 

休みになったら妻を構いたいし、おしゃべりをしたり、一緒に楽器を弾きたい。

こうして頑張れるのも、大切なものがいくつもあるからなのだ。

ピンチはチャンスの顔をしてやって来る

4月末に締め切りだった仕事が6月末に延びたのでヨユーになったかと思いきや、全然ヨユーじゃなかった。

ヨユー✌️ってしてられたのも3日間くらいのことで、やるべきことは終わってないし、なんなら巻きで終わらせた方がいいよ!と先輩に言われたことも手伝って、結局のところこれまで通りだし、なんなら3日間ヨユー✌️をやったせいでスケジュールが押しはじめた。

馬鹿だ。

いくつもの案件が同時進行し、忙しいタイミングが同じくらいにかぶっていて、頭がおかしくなりかけている。

そのうちのひとつの案件が、相手の都合でリスケしたり打ち合わせの時間を取れなかったり、私の資料のフィードバックが返ってこなくて、私の作業が止まってしまっている。この間に他の案件を進められるのでいいのだが、ゆくゆくはこの遅れが私の首を鎖で縛ることになるだろう。

また他の案件でも、すこし手こずることがあって、遅々として進まない。ヤバくなってきている。

3月後半から4月にかけて、土日休みがなくなるんじゃないか。危惧している。

ピンチだ。

 

チャンスはピンチの顔をしてやってくる、という格言がある。どこの誰が言ったのか知らないが、どうせサンクチュアリ出版あたりの出してる彩度の高い写真を使った名言集にでも書いてあったのが一人歩きしてるのだろう。

出典はともかく、私はこの言葉を頼りにしている。

チャンスを逃すというのは、ピンチから逃げたことに他ならないのだ。そう思うと逆境だってビッグウェーブだ。

ピンチに見えることは成長のチャンス。これを乗り越えられたら次なる成功へと繋がっているはずだ。

でも一方で、ふつうのピンチもある。

チャンスでもなんでもなく、ただただヤラカシて無惨にも叩きのめされるのだ。

だから、闇雲にピンチを喜ぶのは違う。

今、たしかに成長の兆しはあるけど、それ以上にピンチの勢いが強い。ここでうまくやらないと、今後の進退にも関わる。

手を動かすしかないし、誠実に目の前のことを片付けていくしかない。

 

ピンチ色は強いけれども、とりあえずニヤッと笑って状況を楽しもうと思う。私はヤバくなると笑うのが得意なのだ。

虚しい感動

よりもひと月先に入った中途採用の人が、今日で辞めた。

見るからに愚鈍だったし、説明したときにはさもできそうな感じで意見を述べたり、わかりましたと言わんばかりの相槌を打っていたにもかかわらず言われたことを再現できなかったり、その他にもいろいろとマイナス評価が重なって、結句は「辞めさせられた」かたちと相なった。

一度、残業のかなり遅い時間に、上司に叱責というか、それなりの重いことを言われていたのを目撃した。上司は怒るというよりもう呆れてる具合で、その人を相手にしているとこちらまで心をすり減らすことになると言わんばかりの状態だった。

私が入って1ヶ月の頃には、まぁまだうまくやっているように見えたのだが、私から見ても3ヶ月目くらいには「もしかしてこの人全然仕事ができないな?」と断ずることができた。成果物を見てもそうだし、作成された書類や基本的な資料を見ても明らかだった。

経験がどうこうではなく、人間性としての問題を感じるようなレベルなのだ。

ある日その人から、わたしはほとんど同い年なのに、もう3回も転職してるんです、という話を聞かされた。

なるほど、である。

仕事が遅いだけならまだいいのだけど、精度も悪い。そうなると「この時間で何をやっていたの?」という話になる。

何度も同じ間違いを指摘されても修正できていない。その場限りではいい返事をする。だからより一層、上司や先輩はストレスが溜まるようだった。

本人からの依頼退職、ではあるけど、実質的には上司との「面談」の結果によるリストラまがいのものである。

でもこれで双方にとってよかったのではないか。その人も、ここ最近はかなりつらそうだったから。

 

一方で私は、その人の存在に安心もしていた。

私はまだ入ったばかりで仕事に自信がないし、速度の面でも精度の面でも他の方々に比べたら劣ることに間違いはない。でもその人がいたから、私はビリにならずに済んだ。

それが辞めてしまうと、私は「一番できない人」になってしまうし、反面教師を得られないため学びの機会が減ってしまう。

明日からもう少し気を引き締めようと思う。

 

その人がお別れの挨拶にお菓子を配って回っていた。

私もいただき、その場ですぐに食べた。あまり味はしなかった。

「優しくしていただいてありがとうございました。ぜひプライベートでもまた機会があれば」と言われたので、「ドモ」と会釈だけして、餞別の言葉を述べた。

お疲れ様でした。どうかお元気で。

事実上辞めさせられるのにお疲れ様もクソもないし、っていうかここでお菓子を配って一人一人と言葉を交わすその胆力もすごい。もしかして使いようによっては有用な人物なのではないか。

「ありがとうございました」と言って歩き回り、どこか歴戦の仲間たちとの別れを惜しむような態度さえあるその人に対し、他の人も「お疲れ様でした」とだけ言って言葉少なに会釈をする。

なにがお疲れ様なのだろう。その人は半年しか働いていないのに。

先輩が、手ぶらではなんなので、という形式的な理由で石鹸をプレゼントしていて、それにその人はとても驚き、少しだけ涙を滲ませていた。

「え!わたしなんかが!え!ありがとうございます!感激です!え〜!泣いちゃいますなんだか…」

なんて虚しい涙だ。

大袈裟に喜び、感動しているその人の感情の、言葉の、行動の、涙の、どこまでが本当なのだろう?

この、どうでもいいような、ニオイの立つ石鹸によってその人の心はどこか救われたのだろうか?

この人には心がないのか、それとも感情を分析的に判断できていないのか。

先輩の心のこもっていない形式的なプレゼントであるというのを知っている私は、その人の脂汗みたいな涙を見て、散弾銃を打たれたときのような無数の穴が心に空くのを感じた。

同じ穴が、その人の心にも無数に空いてて、なにも溜めることなどできないのかもしれない。

 

その人は最終日だけど、残業した私よりもまだオフィスに残っていた。

まだまだデスクには私物がたくさんあって、とても今から片付けて撤収するのは大変に見えた。片付ける時間はたくさんあったはずなのに。

最後の最後まで……いや、これ以上は何も言うまい。

戦争になったらどうすればいいの?

今の世界情勢や憲法改正の風潮を見るに、これは戦前なのではないかと最近よく思う。

この先戦争になるとしたら、帝国主義的な戦争ではなくて、行き詰まった資本主義を再構築するための退廃的な戦争になるだろう。

見かけだけだとしても、みんなが平等な権力を持ち、教育を受け、社会が金をある程度持ち、成長が臨界に達したときに(表面上の臨界点だ)、資本主義の「成長し続ける」教義とは相反してしまい矛盾を抱えながら停滞するのではないだろうか。

一方で国内の貧困格差は広がっている。それが停滞の象徴だ。モノに溢れた貧困、これがカビのように急速に民草の根で広がると、国家という大木は腐り落ちるだろう。

知らんけど。

 

知らんけど、って逃げるのはちょっとズルい。

でも私は専門家じゃないし、知識もないし、なんとなく肌で感じたことを書いているだけだからどうか真に受けないでほしい。

知らんけど、って言ってるうちにマジで戦争になったらどうしたらいいのだろう。

知らん場合ではないのかもしれない。

 

ロシアやウクライナの状況を見ていると、日本で戦闘になったら一般市民も戦争に巻き込まれるし徴兵もあるだろう。

私は運動神経も悪いし頭も良くないし、おまけに反骨精神の塊なので徴兵されてもまずなんの役にも立たないことは明白である。視力もひどく悪い。おまけに猫背だ。徴兵されたらむしろ軍の損に繋がるだろう。

それにしても絶対に戦場には行きたくない。

世間の風潮がどうあれ、家族になにを言われても戦場なんてまっぴらごめんだ。

理由はなんであれ人を殺していいわけがない。

自分が人を殺すことに加担するなんて、冗談じゃない。

私には人の命を奪う権利なんてない。たとえそれが国家から与えられたモノだとしても、使命だとしても、だ。

私が生き残って、なんとか繋ぎ止めた命で、この誰かを殺した手で、妻を抱きしめられるだろうか?私が奪った命もまた誰かを抱きしめたかったのだとしたら……。

戦争は特殊な状況だからあらゆる印象は操作されて人殺しを肯定されるようになるだろうが、「自分は人に殺されたくないし、殺したくもない」という考えだけはブレずに持っていたいものだ。

他国への感情に比べれば、愛国心と呼べるものはあるかもしれないけど、それと殺人は別だ。

 

書籍を作る仕事をしているけど、戦争になったらその仕事もなくなるかもしれない。戦争中に本が売れるとは考えにくい。

せめてそうなる前に「有事対策マニュアル」を企画して一儲けしたいものだ。もうちょっと危なさが見えてきたら企画書を作ろうと思う。

食事とか配給制になるのだろうか?

配給飯、という料理本を作るチャンスだ。

配給された食事をアレンジするバズレシピがSNSで出回ったりするんだろうな。それで敵国風のアレンジになっていたりすると炎上したりするんだろうな。

その炎上自体が敵国によって仕組まれたものである可能性はある。みんなが疑心暗鬼になっていく。在日敵国人への強烈な差別が生まれることは想像に難くない。

 

戦争は嫌だ。

私は今からちゃんと自分の立場や考えをあらためておこうと思う。知らんけど、と言ってる間に、他人事ではなくなってしまうから。

目痒鼻痒

は花粉症ではなかったのだが、今年からなんだか目が痒くて、鼻もムズムズする。

それくらい、花粉量が多いということなのか。

真正花粉症の人はよっぽどキツいだろう。花粉症もちの人がなんか2月末くらいから時たま「今日、(花粉が飛んで)来てる…」とぼやいていた。

それにしても、受精するぞ〜!と意気込んで飛び出してきた花粉たちが人間どもの鼻や目に入ってそこで未来の可能性を潰されてるのを想像すると、なんだかちょっと惨めだし、人間も辛いので誰も得をしていなくて虚しい。もうこんなこと、やめた方がいい。

 

高校生の頃、友だちがひどい花粉症で、入学式のときに隣の席だったのだけど、ずっと鼻水を出してズルズルしていたのをよく覚えている。

入学式のちょっと前に耳鼻科で鼻の粘膜を焼く手術をしたらしいのだが、あまりの恐怖に失神し、目が覚めたら点滴を受けていたらしい。それでも花粉症は治らなかったのだから、失神損である。

 

会社の先輩が、なんか急に花粉症になったらしくて、昼休みに近所の耳鼻科に行ってきた。

そこで薬をもらい、「夕食後」に飲むべき薬なのだが、はやく治したいからと言って13時ごろに飲んで、案の定というかなんというか、そのあと猛烈な眠気が先輩を襲っていた。

「だから夕食後なのね〜」と眠気まなこでぼんやりして過ごしていた。

そのおかげで打ち合わせにも遅刻していた。

 

今年の花粉はすごい。

大した花粉症でもない私がそう思うのだから、真正の人はかなりキツいだろう。

伐り倒そう。すべてのスギ科を。

 

中華料理屋での冷遇

昼に出る時間が遅くなってしまって、14時半ごろに会社近くの中華料理屋へ駆け込んだ。

この時間だと「一生懸命営業中」から「心を込めて準備中」になっているお店が多いのだが、この中華屋は運良く「一生懸命」だった。

ので、入ったら、店員の女性にキョトンとした顔をされて、でもすぐに指でどこに座るか示され、私が座る前にメニュー表を出された。

中国人の店員らしい対応である。

店内には中国の歌謡曲が流れている。たぶん男の非情を嘆く女の気持ちを歌ったものであると考察できる、そんなメロディだ。

「麻婆豆腐」を注文した。

 

私が注文してすぐ、表に掲げられていたメニューが外されて、私の隣のテーブルにどかっと置かれた。ドア横の「一生懸命営業中」も「心を込めて〜」に変えられたようだ。

麻婆豆腐が到着するや、私のテーブル以外の電気が暗くなった。

どうやら、私はラストオーダーのギリギリか、あるいはラストオーダー後に来店してしまったようだ。

それで店員も驚いた顔をしていたのかもしれない。

でも私はなに一つ間違えていない。私が来店したときには「営業中」だったのだから。

私が食べている横で、店員が看板の文字を書き換えたり、テープで補修をし始めた。

厨房からゾロゾロと料理人が出てきて、賄い飯をよそい、向こうのテーブルで食べている。

「……!%♪8〒😇?!…。堝/sa*」

「象○☆Q👺…!+>ⅸ➖」

まったく意味はわからないが、中国語で、大声で話している。筒抜けである。

どうせ私がなにも知らないと思って、日本の悪口でも言っているのだろう。そうに決まっている。

 

こんな中で激辛麻婆豆腐を啜っている自分が惨めで、哀しくて、可哀想になってきた。

私は祝福されていない。

この店の、厄介者だ。

じるじる麻婆豆腐を吸っている、変な男だ。

中国人たちは自由で、自分が中心で、なんかいいな、と思う。

だんだんムカついてきたので、なるべくゆっくり食べて、できるだけ店に長居することにしたけど、店員はマイペースを貫いているので我関せずであった。私のことなんて、ハナかり気にしちゃいない。

私もこうなりたい。

 

お会計をして店を出たとき、激辛で汗ばんだ体に風が気持ちよく、そしてなにか開放感があって、実に爽やかな気分だった。

また来ようと思った。

春の空気は丸くて大きい

の暖かい空気。好きだけど嫌いだ。

暖かくて心地よいのは好きだけど、いきなり暖かくなるとなんらかの神経が異常をきたして、明確に発狂寸前になってしまう。

全身の血管に真綿が詰まってるみたいな息苦しさを感じるし、表皮を覆うこの輪郭が二重になったり虹色に光って自分という存在そのものが危ぶまれるような危機感を抱く。

私のブログを長く読んでいる人はおわかりのとおり私は気温の変化というものにめっぽう弱く、毎年春になると癲狂老人日記と化すのである。

特に寒→暖が無理だ。

春になると改札とかでニヤニヤ笑いながらぶつぶつ物言ってる人いるでしょ。

あれ、3年後のおれです。

 

春は空気の粒が冬よりも大きい気がする。

空気の粒ってものはないのだけど、イメージとして空気の粒があるとしたならば、春は確実に大きくて、丸い。

冬の空気は小さくてチクチク尖っている。

だからなんだって話なんだけど。

春の空気の粒はチョコボールくらい大きい。冬の粒は雪の結晶くらいなのに。

そんな大きいから、気管とか肺に詰まってしまってうまく呼吸ができなくなって、私は狂い、美しい女を目にしただけで頭皮を引きちぎりたくもなるのだ。

 

そんなこんな言ってると、なんか今夜は風が強くて、すごく寒い。

馬鹿なのか?

馬鹿なんだろうな。