蟻迷路23歳、の、終戦記念日は、仕事中に先輩が言った「あ、今日終戦記念日か。もうそんな日か」で終わった。
午後にはときおり激しい雨が降り、大粒の雨が窓を叩いた。
電車の中で本を読み、家に帰り、ブログを書くかとパソコンを立ち上げて何を書くか頭を抱え、そういえば今日は終戦記念日だったな、と思いを馳せた。
23歳の終戦記念日はこのようにして終わろうとしている。
小学生の頃は図書室に置いてあった『はだしのゲン』の熱烈なファンだったので、8月6日と9日の原爆忌はもちろん、終戦記念日にも敏感で、その日の正午はクーラーの効いた部屋で黙祷をささげていた。
せんそうなんて、やっちゃいけないことだ。
あの頃から月日は流れ、私の中で「戦争」は影を潜めつつある。
最近テレビでも戦争の特集や特別ドラマなど見られなくなった気がする。もしかしたら世間的に戦争を忘れようとしているのかもしれない。悲惨な歴史から目を背けようとしているのかもしれない。あるいはこれは、アベの策略かもしれない。かもしれないが多いかもしれない。
まあ、どうだっていいのだけど、第二次世界大戦後から続いていた「平和主義」は移民やいびつな経済格差や根深い差別によって薄らぎつつあるよな、っていう危惧がなんだかむらむらと心の隅にあるし、どれもこれも歴史を見てみると、人間とは実に戦争をする生き物だと言わざるを得ないので、100年近く日本で戦争がなかっただけこれは特殊な期間だったのかもしれないな、と思う。
それもこれも戦争を体験した高齢者の語りのおかげだから、語る人がいなくなった時がいちばんヤバくて、その日は近づいている。
戦争は人間にとって自然なことなのかもしれない。
というか、戦うことは動物にとって自然なことなのだ。縄張りやメスをめぐって動物は争い続ける。食べるために、増えるために戦いをやめない。
それが社会間の戦いであるというのが人間と動物の違いである。
その「自然」とやらは人間の平和であろうとする努力によって歪められ、近年まで影を潜めていたようだけれど、やっぱり最近になってその歪みが表層化しつつあるというか、私たちはなにか「憎むべき標的」を欲しているかのような錯覚を覚える。
だからといって戦争を肯定するわけではない。
戦争になっていいわけがない。
死ぬのは嫌だ。傷つくのは嫌だ。喪うのは嫌なのだ。
そういう矛盾、というか、せめぎあいみたいなものが法律と歴史と世代ごとの人々の心の底にあって、絶妙なバランスで危ない橋が揺れている。気がする。
戦争になって、時代遅れな徴兵などやるようであれば、私は国会議事堂の前でフォークソングを歌おうと思う。
戦争になんていくものか。
だいたい、生まれたくて日本に生まれたわけではないし、こんな国になんの愛着もない。それは私がどの国に生まれようが同じことである。大切な人を守りたくはないのかこの腰抜けめ!非国民!リアス式歯並び!と言われても絶対に行かない。大切な人とどこかへ逃げよう。私の歯並びが悪いことを馬鹿にした人間は許さない。
それに、銃火器を他人に向けて命を奪いたくもないし、奪われたくもない。
人を殺すのは小説の中だけでけっこうだ。ゲームで充分だ。人は死んだらマリオみたいに復活しないし、撃ち抜かれた腕は永久に損なわれるのだ。小説とは違って実際の痛みが伴うし、ページの最後の先が人生にはある。
こういう個人主義がまた誰かの憎悪を増長させるかもしれぬ。
歴史教育は、おそらく無駄だ。
あんなもの、知識を吸収するのがおもしろいだけだ。私はそれが楽しくて学校で一番世界史ができたのだ。自慢してますよ。
歴史教育の目的が「悲惨な歴史を繰り返さないようにする」ことだとしたら、教科書そのものがそれを否定しているではないか。
なぜなら、「歴史は繰り返す」ということを私たちは学ぶのだから。
最近、世界的に歪んでいるようにも見えるけど、基本的にはみんなで欲を捨てて、悲しみを抱きながら孤独を愛し、ほんの少しの優しさであたたかく繋がることができたらいいと思う。