蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

本当は出汁を食べたいだけでは

んにゃく、いいですよね。

おでんとか、豚汁なんかに入ってて。

こんにゃくは包丁で等間隔に切るよりも、スプーンで抉って不揃いにするのが好きだ。荒さを出したほうが表面積が大きくなるので味も滲みやすくなるらしい。

 

こんにゃく、ところで、「味わった」ことありますか?

口に頬張るところを想像してみてください。

ちがうよ。ちがう。

だめだね。

今想像したのは「おでんに入ってるこんにゃく」ではなかったですか?

おでんの出汁が滲みて、熱気をこもらせたこんにゃくを頬張る想像をし、ああこれがこんにゃくの味だよナ、と勘違いをしたのではないですか?

でしょう?

これがこんにゃくメンタリズム。

いいかい。

それは、明確に、間違いなんだ。

あなたが想像したのは「こんにゃく」の根源的な味ではなく、「おでんのこんにゃく」でしかない。

私が求めているのは「こんにゃくの味」だ。

本体そのものの味を思い出せと、言っている。

そしてそれが不可能であることを私は知っている。

 

こんにゃくに味なんてない。

あいつは食感に100をかけている、頭のおかしいやつなんだ。受験生なのに世界史しか勉強してないみたいなもんなんだ。

だから、こんにゃくゼリーなんてものが製造されるのだ。

「食感さえこんにゃくになっていれば、こんにゃくと名乗っていいよね」

そんな舐め腐った態度をこんにゃくゼリーからは感じる。でも、この意見は正しい。

なぜならこんにゃくに味わいなんてものは最も縁遠いステータスであり、もしも仮にこんにゃくに味わいが存在したら、こんにゃくゼリーの葡萄味なんて存在し得ないし、他の商品でも「こんにゃく味」の食べ物があって然るべきであるのだから。

それが無いということはつまり……。

 

じゃあこんにゃくとはなんなのか?

食感である。

食感であり、出汁を吸収し熱を保蓄する媒体としての「メディア」である。

出汁、美味しいですよね。あれだけずっと味わってたいみたいなことある。

熱もいい。温かい食事ってそれだけでありがたいもんだ。

これらの恩恵をなんとか物体としてこの世にとどまらせ、固形物として口に含むことができる形にしたもの、それが「こんにゃく」という媒体(メディア)なのだ。

だからこんにゃくに食感もなく、蓄熱効果もなかったら、それはもうクソ以下の何かだ。そんなものがこの世にあるのかは知らないが。

こんにゃくの刺身。あれも酢味噌を食べたいだけ。本当のところ。

おでんとか味噌汁とか刺身とか煮物とか、こんにゃくはそのすべてにおいて味の仲介者なのだ。

 

あと、今からちょっとすごいこと言うけど、ぶっちゃけさ、「味が滲みたこんにゃく」って言うほど滲みてなくないですか?

1日2日置いたくらいじゃ味は滲みわたらなくないですか?

こうなってくるともう、こんにゃくは熱と食感だけの存在になり、食べる価値としては「あえて食べてるよ」という精神的な可笑しさのみになってくる。

こんなことがあっていいのだろうか?

時代に迎合していない。淘汰されても文句は言えまい。